文書・図像類
平成28年度 久留米市内遺跡群
資料に関する注記
一般注記:
- (益生田古墳群 第4次) 遺跡は、耳納連山北麓の斜面上標高122mに位置し、83・85・87・88・90号墳の5基を対象に調査を実施した。83・88号墳は単室、85・87号墳は複室の横穴式石室を内部主体とする円墳である。半壊していた90号墳を除く古墳は構築墓壙を有し、墳丘の構築過程で積土内に埋め込ま...
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書誌情報
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紙
- 資料種別
- 文書・図像類
- タイトル
- 著者・編者
- 熊代,昌之江頭,俊介西,拓巳神保,公久小川原,励
- 出版事項
- 出版年月日等
- 2017-03-31
- 出版年(W3CDTF)
- 2017-03-31
- 並列タイトル等
- へいせいにじゅうはちねんど くるめしないいせきぐん
- タイトル(掲載誌)
- 久留米市文化財調査報告書
- 巻号年月日等(掲載誌)
- 382
- 掲載巻
- 382
- 本文の言語コード
- und
- 対象利用者
- 一般
- 一般注記
- (益生田古墳群 第4次) 遺跡は、耳納連山北麓の斜面上標高122mに位置し、83・85・87・88・90号墳の5基を対象に調査を実施した。83・88号墳は単室、85・87号墳は複室の横穴式石室を内部主体とする円墳である。半壊していた90号墳を除く古墳は構築墓壙を有し、墳丘の構築過程で積土内に埋め込まれた積石を検出した。これは、墳丘強度を高めるためと考えられ、田主丸大塚古墳においても同様の墳丘構築の在り方が確認されており、関連が注目される。また、石室及び墳丘は北向きに傾いた状況で検出され、その原因は地形変動に由来すると推定される。83号墳から出土した7世紀後半代の祭祀遺物が、崩壊した古墳石材によって破壊された状態で出土したことから、筑紫大地震の影響をうけた可能性もある。 (隈山古墳群 第2次) 都市計画道路整備に伴い設けられる緑地帯整備に先立つ測量調査を行った。調査の結果、2基の円墳の存在が確認でき、いずれも直径15m程度の円墳と想定された。主体部付近は大きく陥没しており、破壊されているものと思われる。 (京隈侍屋敷遺跡 第29次) 調査地は、近世久留米城下、京隈侍屋敷地区に位置し、天保年間久留米城下図に見る杉原家・粟生家の敷地境に位置する。今回の調査は、この屋敷境の検出を主目的として行った。調査の結果、屋敷境推定地より東西溝を検出したが、溝は近世以降のブロック積の側溝であり周辺遺構も近代以降のものが大半であった。周辺の宅地の敷地割りの状況から検出溝は、近世の屋敷地の区割りを踏襲して築かれたものと推定される。 (大園遺跡 第5次) 大園遺跡は、過去の調査により弥生時代中期・後期、9~13世紀代の遺構・遺物が検出されている。今回の調査でも、弥生土器細片や黒曜石・サヌカイトの剥片などが混入した状況で少量出土しており、調査地周辺に弥生時代の遺構の存在が想定される。その後、13世紀代を中心とする時期に遺構の増加が認められ、有力者の居住地が展開したというこれまでの調査結果を、補強することができた。 (白川遺跡 第10次) 調査地は、標高34mの洪積台地上に立地する。周辺には湧水が多く、縄文時代から生活の拠点となっていた。近接する日渡遺跡群正福寺遺跡では、ドングリピットやアミカゴが検出されている。今回の調査では、古代の溝等を検出した。また、近代の遺物を含む掘立柱建物を検出し、同時期に調査を実施した隣接調査区(白川遺跡第6次)の成果と総合し、久留米俘虜収容所の建物跡であると断定した。 (白川遺跡 第7次) 調査地は高良山から派生する洪積台地上に位置し、筑後国分寺・国分尼寺の南東約500mに立地する。また、第一次世界大戦に伴い大正4年(1915)に設置された久留米俘虜収容所の敷地内にあたる。今調査で第6次調査で確認された久留米俘虜収容所の下士卒バラックの建物と考えられる6SB65の北側延長部分を検出し、柱穴内からサクラビールの瓶片が出土した。また、古代・中世の溝・土坑を検出している。 (白川遺跡 第8次) 調査地は高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は、土坑1基とピット多数を検出したが、土坑からは遺物が出土せず、詳細な年代は不明である。掘立柱建物は、地下式礎石を有する本柱を桁間7間✕梁間2間分を検出し、控え柱とみられる柱穴4基が並行していた。柱穴の配置や計画方位、埋土などの特徴、「サクラビール」の陽刻を有するビール瓶といった出土遺物の傾向から、周辺でも検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物と考えられる。 (市ノ上北屋敷遺跡 第6次) 調査地は、筑後川左岸に形成された標高12mの低台地上に位置する。周囲には弥生時代の集落等が多く認められる。今回は弥生時代の溝2条、竪穴建物、土坑などが検出された。また、近代に廃絶した有馬別邸に伴う廃棄土坑が検出された。 (高良山講堂跡 第1次) 筑後一の宮である高良大社境内において実施した、国指定高良山神籠石に関わる史跡内容確認調査である。調査では、神籠石に関連する遺構は検出されなかったが、中世以降の遺構・遺物を検出した。中でも、存在が知られていなかった石垣が検出され、その上段・下段において近世の礎石建物が3棟検出された。これらは近世に描かれた絵図にある本地堂や番所にあたるものと想定される。 (高三潴遺跡 第6次) 調査地は、広川左岸の沖積地に接する微高地上に位置し、弥生後期の高三潴式の標識遺跡として知られている。周辺では、甕棺墓地等が見つかっている。今回の調査では、弥生時代の環濠とみられる断面V字形を呈する溝や、自然流路、柱穴などが検出された。2基の柱穴からは、それぞれ柱根が出土している。 (白川遺跡 第9次) 調査地は高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は、溝3条と土坑1基を検出した。溝は周辺で検出された溝の続きと考えられる。掘立柱建物は、地下式礎石を有する本柱を桁間11間分検出し、控え柱とみられる柱穴6基が並行していた。柱穴の配置や計画方位、埋土の特徴から、第8次調査で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物の続きと考えられる。 (白川遺跡 第11次) 調査地は高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は、溝2条と埋納ピット1基を検出した。溝は周辺で検出された溝の続きで、区画溝のコーナー部分にあたることが明らかとなった。掘立柱建物は、本柱の柱穴を桁間6間分検出し、控え柱とみられる柱穴1基が伴う。柱穴の配置や計画方位、埋土や出土遺物から、第6次調査で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物の続きと考えられる。 (白川遺跡 第12次) 調査地は高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は、溝3条と土坑1基を検出した。溝は周辺で検出された溝の続きで、前後関係が明らかとなった。掘立柱建物は、本柱の柱穴を桁間6間分検出し、控え柱とみられる柱穴3基が伴うほか、この建物とは別の控え柱穴3基を検出した。柱穴の配置や計画方位、埋土や出土遺物から、第6・8~11次調査で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物の続きと考えられる。
- DOI
- 10.24484/sitereports.59610
- 関連情報(NCID)
- BN14445317
- 連携機関・データベース
- 国立情報学研究所 : 学術機関リポジトリデータベース(IRDB)(機関リポジトリ)
- 提供元機関・データベース
- 奈良文化財研究所 : 全国遺跡報告総覧