文書・図像類
平成29年度 久留米市内遺跡群
平成29年度 久留米市内遺跡群
資料に関する注記
一般注記:
- (白川遺跡 第7次) 調査地点は高良山から派生する洪積台地上に位置し、筑後国分寺・国分尼寺の南東500mに立地する。また、世界第一次大戦に伴い大正4年(1915)に設置された久留米捕虜収容所の敷地内にあたる。今調査で第6次調査で確認された久留米俘虜収容所の下士卒バラックの建物と考えられる6SB65の...
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書誌情報
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紙
- 資料種別
- 文書・図像類
- タイトル
- 著者・編者
- 西,拓巳神保,公久江頭,俊介小川原,励大隈,彩未
- 出版事項
- 出版年月日等
- 2018-03-31
- 出版年(W3CDTF)
- 2018-03-31
- 並列タイトル等
- へいせいにじゅうきゅうねんど くるめしないいせきぐん
- タイトル(掲載誌)
- 久留米市文化財調査報告書
- 巻号年月日等(掲載誌)
- 400
- 掲載巻
- 400
- 本文の言語コード
- und
- 対象利用者
- 一般
- 一般注記
- (白川遺跡 第7次) 調査地点は高良山から派生する洪積台地上に位置し、筑後国分寺・国分尼寺の南東500mに立地する。また、世界第一次大戦に伴い大正4年(1915)に設置された久留米捕虜収容所の敷地内にあたる。今調査で第6次調査で確認された久留米俘虜収容所の下士卒バラックの建物と考えられる6SB65の北側延長部分を検出し、柱穴からサクラビールの瓶片が出土した。また、古代・中世の溝・土坑を検出している。 (白川遺跡 第8次) 調査地点は、高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は土坑1基とピット多数を検出したが、土坑からは遺物が出土せず、詳細な年代は不明である。掘立柱建物、地下式礎石を有する本柱を桁間7間✕梁間2間分を検出し、控え柱とみられる柱穴4基が並走していた。柱穴の配置や計画方位、埋土などの特徴、出土遺物から、周辺でも検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物と考えられる。 (高良山講堂跡 第1次) 本調査は、高良大社の境内整備に先立つ史跡内容確認調査として実施した。調査地は、「絹本著色高良大社縁起」によると講堂跡に比定される。調査では、対象地に中世以降に整地が施されていることや、近世以降に石垣が施され、布基礎建物などが存在していたことが判明した。これらの遺構は良好に残存しており、中世以前の講堂遺構や高良大社創建に関わる問題についても、今後の調査によって解明できるものと思われる。 (白川遺跡 第9次) 調査地点は、高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は、溝3条と土坑1基を検出した。溝は周辺で検出された溝の続きと考えられる。掘立柱建物は、地下式礎石を有する本柱を桁間11間分検出し、控え柱とみられる柱穴6基が並走していた。柱穴の配置や計画方位、埋土の特徴から第8次調査で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物と考えられる。 (南薫本村遺跡 第2次) 本調査は、南薫本村遺跡における2回目の調査である。調査面積が82㎡と狭いものの、弥生時代後期と奈良時代の土坑などを検出することができた。調査地の東側には筒川により形成された谷部が位置することから、本調査区が南薫本村遺跡の東端付近にあたるものと想定される。 (久留米城下町遺跡 第26次) 調査地点は、城下町の東端である通町十丁目に位置する。通町筋に面した町屋の裏手を調査し、土坑や埋甕などを検出した。 (庄島侍屋敷遺跡 第11次) 本調査地点は、庄島侍屋敷遺跡の北西隅に位置する。段造成の痕跡と土坑を検出した。 (十間屋敷遺跡 第9次) 調査地点は、筑後川右岸に面した左岸に形成された半島状の低位段丘の中央に位置する。確認調査で検出した、石垣を有する町境の溝を検出し、土層観察から、下層に複数の溝があることが明らかとなった。町境周辺の遺構は、大半が19世紀以降の土坑で屋敷裏手の様相を窺うことができた。 (大井遺跡 第2次) 広い範囲を撹乱によって削平を受けており、遺構の残りが非常に悪かった。ピットと考えられる掘り込みがわずかに確認されたのみであるが、表土中から中世の土師器や輸入陶磁器が発見されたことから、周辺に中世の遺構が存在したことが窺われる。 (麓遺跡 第2次) 調査地は、薩摩街道と高良山参詣道の交差点北西側に当たる。旧参詣道は検出されなかった。 (白川遺跡 第14次) 調査地点は、高良山から派生する中位段丘に位置する。近代の掘立柱建物は、周辺の調査で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物の続きで、建物の北部を検出した。今回の調査では、捕虜収容所建物の図面にある間仕切りの柱穴を検出し、掘立柱建物が捕虜収容所の下士卒バラックである可能性が高くなった。 (高三潴遺跡 第7次) 調査区を北西から南東に走行する、断面がV字の前期の溝が確認した。溝の埋土にはカキ殻などの貝類が多く含まれ、動物骨などもわずかに含まれていた。中期の竪穴建物も2軒確認された。また、時期は不明であるが、土坑から馬の骨が一体分出土した。今回の調査では、高三潴遺跡の前期から中期にかけての集落の一部を明らかにすることができた。 (白川遺跡 第15次) 調査地点は、高良山から派生する中位段丘に位置する。近代の遺構は、掘立柱建物2棟と埋甕2基を検出した。掘立柱建物は、周辺の調査で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物の続きで、建物の南端部を検出した。埋甕は2基が並んでおり、久留米俘虜収容所の便所遺構である可能性がある。 (白川遺跡 第16次) 調査地点は、高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は、溝1条と土坑1基を検出した。溝は第11次調査で検出された溝の続きと考えられる。掘立柱建物は、周辺の調査で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物の続きと考えられるが撹乱による削平が著しく、残存状況は悪い。 (白川遺跡 第17次) 調査地点は、高良山から派生する中位段丘に位置する。古代の遺構は、溝1条を検出した。溝は第16次調査で検出された溝の続きと考えられる。掘立柱建物は、周辺で検出した久留米俘虜収容所(旧久留米衛戍病院新病棟)の建物の続きと考えられる。 (高三潴遺跡 第8次) 本調査地点は、福岡県教育委員会が昭和62年に発掘調査を行った、塚崎東畑遺跡の東隣に位置する。塚崎東畑遺跡では、弥生時代の墓や建物跡が確認されているため、今回も同様の成果が得られると考えられた。しかし、墓壙と考えられる遺構は確認できなかった。主要な遺構としては、弥生時代前期~中期の竪穴建物や貝殻を廃棄した土坑、溝などがある。竪穴建物は複数の切合が確認され、長い期間当地で生活していたことが推定される。第7次調査の成果と共に、弥生時代前期・中期の居住域の範囲を確認することできた。 (汐入遺跡 第4次) 本調査地点は、低台地上の標高9m地点に位置する。主な遺構として、古代の掘立柱建物1棟と土坑2基、近世以降の溝1条を検出した。掘立柱建物は東壁の2間分を検出し、遺構の大半は調査区外に延びると考えられる。土坑からは、土師器や須恵器、鉄製品が出土しており、周辺の遺構との関連が示唆される。
- DOI
- 10.24484/sitereports.63798
- 関連情報(NCID)
- BN14445317
- 連携機関・データベース
- 国立情報学研究所 : 学術機関リポジトリデータベース(IRDB)(機関リポジトリ)
- 提供元機関・データベース
- 奈良文化財研究所 : 全国遺跡報告総覧