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書誌情報
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- 資料種別
- 和古書・漢籍
- タイトル
- タイトルよみ
- サツエイカガミ
- 出版年月日等
- 1881
- 出版年(W3CDTF)
- 1881
- NDC
- 対象利用者
- 一般
- 一般注記
- 明治初期の京都府及び奈良県の名所の写真帖です。表紙に『撮影鑑 二』と墨書されていることから、第一巻の存在が推測されますが、残念ながら当館にはこの「二」しか所蔵していません。この写真帖は『琵琶湖疏水工事写真帖』と同じく、元京都市長高山義三氏の旧蔵資料で、明治期の府会議員である中村栄助氏から、三男である高山氏に引き継がれたものです。見返しに「明治十四年四月調製 京都舎密局蔵板自」と記されていることから、当時舎密局の主管であった明石博高が撮影したものではないかと推測されています。明石は、明治期の医師、実業家で、京都府にも出仕し、数々の近代化政策を推進した人物です。医師であった彼は、特に理化学、薬学研究に優れた業績を残しました。舎密局とは、理化学、化学工業技術の研究を目的として設置された施設で、「舎密」とはオランダ語のchemie(化学)の当て字です。明治14年という年は、府の勧業政策の転換により、明石が舎密局の払い下げを受け、京都府の職も辞した年にあたります。残念ながら舎密局は、その三年後に経済上の理由で廃絶します。またこの写真帖には、舎密局の印と「博高」と判読できる印が押印されていることも、この写真帖の由緒を知る手がかりとなります。ところで、『明治文化と明石博高翁』(田中緑紅著)によれば、明石が写真術の研究を始めたのは幕末の文久年間に遡り、辻禮輔という蘭学者を師として写真術を修め、京都、奈良の風景を撮影に歩いています。これらはいずれも硝子板写真であったものを、後年、舎密局時代に紙焼きして写真帖を作製し、天覧に供し、徳川慶喜や岩倉具視、三条実美にも献上したということです。この記述から推察すると、『撮影鑑 二』こそがこの写真帖ではないかと思われます。この写真帖に収録されている写真からは、神社仏閣等の名所旧跡の当時の様子がわかるだけでなく、五条板橋、嵐山の鉱泉浴場、南山城の童僊(仙)房という開拓地の写真等、歴史的、風俗的な観点からも貴重な記録写真が含まれています。
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