出島のクリスマスとオランダ正月
鎖国下の江戸時代、西欧への窓口だった長崎にはオランダ人が居住する出島があり、ここで貿易が行われていました。出島内で生活しているオランダ人は、キリスト教禁教下にあってひそかにクリスマスの祝祭を行いました。また日本人の通訳(通詞)や蘭学者たちは、オランダ人が祝う正月行事を同様に祝いました。
ここでは出島におけるクリスマス(阿蘭陀冬至)と正月(阿蘭陀正月)、そして蘭学者達のオランダ正月をご紹介します。
出島の姿
出島は人口の島として寛永13(1636)年に築造され、ポルトガル人追放後はオランダ人が居住し、西欧とつながる唯一の貿易地としての役割を担っていました。出島は扇形の島で、1本の橋で陸地とつながり、島の中には商館を始め、オランダ人の住居や畑、役人の詰め所等がありました。出島のほかには中国人の居住する唐人屋敷がありました。当時の地図や画から、海上に浮かぶ出島、市中の唐人屋敷を確認することができます。
オランダ商館
出島のクリスマスと正月
出島に居住するオランダ人は、長崎の唐人屋敷に居住する中国人が、毎年陰暦の冬至(太陽暦の12月22日頃にあたる)に盛大な祝宴を行うことを知り、冬至をクリスマスのカモフラージュとして利用することにしました。阿蘭陀冬至として祝う秘密裡のクリスマスです。中国人の祝う冬至に似せて、朝から銅鑼を盛大にならして行列が巡回し、夜は饗宴が開かれて着飾った遊女が音楽にあわせて舞いました。料理には、当時のヨーロッパのクリスマス料理同様に豚の頭が供され、その口には果物をくわえていました。
太陽暦の元旦には、長崎の役人やオランダ通詞などが商館長から招待され正月を祝いました。招待客は甲比丹部屋(カピタン部屋)の大きな食卓に座り、ギヤマングラスに注がれたワイン、豚や牛の料理、パンやカステラ等によりオランダ流のもてなしを受けたのです。
オランダ正月の料理献立
芝蘭堂の新元会
長崎のオランダ通詞であった吉雄耕牛は、自宅の2階に、西欧の調度品で飾られた部屋を作り、この部屋は各地から訪れる遊学者のあこがれとなりました。耕牛に学んだ蘭学者の大槻玄沢も、吉雄宅で毎年行われる太陽暦の元旦を祝うオランダ正月に参加しました。
彼は後年江戸で開いた私塾・芝蘭堂で、このオランダ正月を祝いました。現在残されている寛政6(1794)年閏11月11日に開かれた芝蘭堂の新元会(オランダ正月)の画には、蘭学者たち29人が、西洋医学の祖であるヒポクラテスの像を掛けてオランダ正月を祝う様子が描かれています。この行事は大槻玄沢以後も代々引き継がれ、明治6(1873)年の改暦まで続きました。
寛政6(1794)年閏11月11日「芝蘭堂新元会」に参加した主な蘭学者ら
吉雄耕牛
大槻玄沢
宇田川玄随
前野良沢
司馬江漢
大黒屋光太夫