江戸・明治の朝顔ブームと書物
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朝顔は薬草として奈良時代に唐や百済から伝来し、「牽牛子」、薬名としては「黒丑」と呼ばれ、主に薬草園で栽培されていました。江戸時代に、園芸文化の発達とともに朝顔が愛好されるようになり、文化・文政期(1804~30)と嘉永・安政期(1848~60)に「変化朝顔」のブームが訪れます。明治にも朝顔がブームとなった時期がありました。この3回の流行期の様子を資料から少し紹介します。
文化・文政期の朝顔ブーム
最初に文化・文政期の朝顔ブームを見てみましょう。ブームの発端は、文化13(1816)年秋の浅草大円寺・上野寛永寺子院で開催された品評会といわれています。この頃から従来の2・3種の色から数倍の色が出来、花模様も葉形も色々になり、こうした変化朝顔の種類が増えていきます。変化朝顔の競い合いが繰り広げられ、「闘花会」も始まりました。これを背景に、朝顔を扱った園芸書が刊行されました。
しかし人々の関心は天保・弘化期(1830~48)になると万年青や松葉蘭に移り、変化朝顔のブームは廃れました。
嘉永・安政期のブーム
第2のブームは嘉永・安政期(1848~60)です。この時期に変化朝顔のブームが再来します。変化朝顔の作り手は、主に武家と植木屋でした。武家では、旗本の鍋島直孝、植木屋では成田屋留次郎が代表としてあげられます。
旗本の鍋島は北町奉行をつとめた人で、変化朝顔や撫子の奇品の育成を楽しんだ風流人でもありました。植木屋の成田屋は、みずから「朝顔師」と名乗るほど変化朝顔の品種改良や普及に情熱を燃やした人物でした。彼はこの時期を代表する図譜を刊行しています。
明治20~30年代のブーム
第3のブームは、明治20年代に到来します。品評会で技術を競い合い、種を交換したりする愛好会が、大阪・京都・東京をはじめ各地に設立されました。雑誌(同好会誌)を刊行する会もありました。
品種改良にも近代科学の技術が取り入れられ、花の好みは大輪咲へと変化していきます。
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参考文献
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