五月人形と端午の節句
西澤笛畝
端午の節句に飾られる五月人形は、雛人形ほどの長い伝統はなく、中世までの端午では馬を用いた競技と菖蒲や薬玉の飾りが中心でした。武家社会が始まると、男子の節句として発展し、武家の自庭で競馬や騎射が行われ、家には鎧や冑等が飾られるようになりました。戦国時代には武具や幟に家紋を付けるようになり、江戸時代に入ると男子誕生の盛大なお披露目の儀式として、冑を家の前に飾り往来の人々に見せました。
徳川の泰平の世が続くようになると、武家だけでなく庶民にも節句の祝いが広まります。武家のように本物の鎧や冑・太刀をしつらえることはできないので、節句用の雛鎧や冑等が飾り物として作られるようになりました。一方で、幕府は細工物をつけて豪華になった冑を贅沢禁止令で取り締まるようになります。その結果、人々は家の前ではなく、座敷に節句の飾りつけを行うようになります。
飾られた冑の頭上に、人形等の細工物がついています。これを冑人形といい、この飾りが独立したのが五月人形ともいわれています。
男児が誕生した家には、お祝いとして武者人形、飾り冑・鎧、青龍刀等が贈られました。江戸時代中期頃には、日本橋十軒店や尾張町等の人形店で鎧冑や金太郎、桃太郎、一寸法師や牛若丸等の人形が並べられ、生まれた子どもの初節句を祝うために人形を購入する人々でにぎわいました。次第に贅を凝らした高価な人形も作られるようになります。
このように五月人形は時代とともに、外に飾られていたものが座敷に移り、装飾性を帯びて工芸品となっていきました。
参考文献
西澤笛畝