江戸っ子の娯楽・相撲
相撲は「国技」の一つとされ、日本の伝統として親しまれています。
ここでは主に、広く庶民の娯楽となった江戸時代の相撲について、様々な錦絵とともにご紹介します。
興行の始まり
江戸時代より前の武家社会では、相撲は武士の鍛錬の一つとして行われました。江戸時代になると、相撲を職業とする人々が現れ、勧進相撲(寺社の建立や修復等のための資金を集める興行)が各地で始まりました。江戸では、貞享元(1684)年に深川八幡宮で勧進相撲が許可され、これ以後頻繁に開催されるようになります。
興行場所は、初めは一定していませんでしたが、寛政年間(1789-1801)以降は回向院で行うことが増え、天保4(1833)年に定場所となりました。明治42(1909)年には、回向院の一画(両国2丁目)に国技館が建設されました。
江戸両国回向院大相撲之図
寛政年間頃には強い力士が登場し、将軍の上覧相撲も行われて相撲人気は高まりました。勧進相撲興行を観覧する小屋は、相撲のたびに仮設されました。回向院の境内には土俵まわりの土間席とそれを取り囲む葭簀張りの3階建ての桟敷席が作られ、土間席には力士を抱える大名の家臣が占めました。
また相撲興行の時期には、相撲櫓が仮設されました。広重『名所江戸百景 両ごく回向院元柳橋』の左端に櫓が描かれています。櫓には興行中晴天が続くことを願って、竹竿の先に麻の出弊が吊るされました。櫓太鼓は早朝4時頃、関取の場所入りの時、打ち出し後の3回叩かれ、相撲の季節の風物詩となりました。
人気の力士たち
相撲興行では、圧倒的な強さを持つ力士たちや横綱の対決などが、観衆を大いに沸かせました。人気力士たちは当時の錦絵の恰好のモデルとなりました。ここでは幕末・明治初め頃まで活躍した力士たちの錦絵をご紹介しましょう。
歴代横綱
初代横綱の明石志賀之助と第4代の谷風梶之助、第5代の小野川喜三郎、第6代の阿武松緑之助、第7代の稲妻雷五郎、第8代の不知火諾右衛門、第9代の秀ノ山雷五郎の7名の横綱を描いた錦絵です。初代の明石は実在が不明ですが、他の6名は実際に活躍した人物です。
生月鯨太左衛門
化粧まわしをした人気力士の錦絵です。このほかにも、粋な着物姿の力士を描いた錦絵も登場しました。
取組と土俵入り
名勝負といわれる取組や横綱の土俵入りも錦絵に描かれました。
取組
小柳常吉
小柳常吉
小柳常吉
土俵入り
江戸時代には相撲は将軍から庶民までが楽しんだ娯楽のひとつでした。当時の錦絵には、人気力士の肖像や名勝負の場面、土俵入の場面等が描かれました。