Title Transcriptionフランス ダイサンキョウワセイキ ニオケル ガッコウ エイセイ ト ジドウ ノ ケンコウ リヨン オ チュウシン トシテ
Alternative Titleフランス ダイサンキョウワセイキ ニオケル ガッコウ エイセイ ト ジドウ ノ ケンコウ リヨン オ チュウシン トシテ
Degree Type博士(史学)
Doctor of Philosophy in History
Note (General)本稿は、フランス第三共和政期の公立初等学校を中心とした学校衛生と児童の健康について、フランス南東部の都市リヨンを事例としながら明らかにするものである。学校衛生史研究はいまだ端緒についたばかりであり、系統だった言説分析、具体的な制度や実践の検討を欠いている。このため、まず公衆衛生行政および教育行政のなかで学校衛生を位置づけ、学校衛生をめぐる言説の全貌を捉え、リヨンを例として学校衛生の制度や実践をつまびらかにした。そして、先行研究において指摘されている、公衆衛生を社会統制とする見方は19世紀末以降にどの程度妥当であるのか、コミューンの衛生行政はどの程度まで機能したのかについて考察を加えた。史料としては、リヨン市立文書館の文書史料を中心として、各種法令、リヨンの公報や行政報告書、教育の専門雑誌の言説などを利用した。第1章では、学校衛生について時代的背景を整理し、行政制度における位置づけを示し、さらに教育界の言説から学校衛生の時期区分を行った。地方行政、教育行政、そして初等教育制度はいずれも1880年代前半に確立する。都市化、産業化にともなう環境の悪化や伝染病の流行が猖獗をきわめるなかで、衛生はコミューンの行政範囲とされたが、衛生事務所創設までは核となる組織を欠いていた。学校施設の建設や管理はコミューンの管轄であり、財源の豊かであったリヨンは自主的な方針を取ることができた。『教育雑誌』を史料として教育関係者の言説から学校衛生を検討すると、三つの時期に分けることができた。学校衛生がまだ話題にならなかった第一期、それへの関心が急速に高まり百花繚乱の議論が行われた第二期、そしてふたたび衛生についての議論が減少する両大戦間期である。第一期には学校を清潔にすることのみに関心がはらわれていたが、学校衛生の発展期にあたる第二期には学校が社会や国民の健康を守るための最前線と位置づけられるほどになった。医学が学校に介入あるいは浸透を始めたのである。ところが、第三期には医師の専門知よりも教員による児童の日常的なケア、家庭と協調して望ましい実践を身につけさせることを主張する言説が目立つようになった。第2章では、第一期(1870年代から1880年代前半)を分析した。1880年代初めに身体や衛生への働きかけが導入されたが、軍事教育的な内容であった。学校施設の普及を促すとともに学校建築基準が定められ、いかに清潔な学校を建てるかがこの時期の最大の課題であった。リヨンではこの時期に早くも学校医療視察制度が導入されて校舎や児童の衛生状態をチェックする仕組みができたが、まだ都市の衛生行政の体系化はなされておらず、ほとんどの都市ではまだこの制度すらない状態であった。第3章で分析した第二期(1880年代後半から第一次世界大戦まで)には、教育行政における身体教育への関心、都市行政における公衆衛生分野の権限拡大、社会的な健康への関心の高まりのなかで、それらの要素が絡みあって学校衛生が展開した。リヨンにおいては、連帯主義を掲げるエリオという市長、実績を積んで実行力のあった衛生事務所に恵まれたことが、学校という場を中心として他都市に比べて積極的な衛生政策を取ることができた要因であった。そして、子どもの衛生は学校を核として、専門的な医療機関、林間学校や野外学校などがその周辺に連なった。学校は国民、社会の衛生の最前線に位置づけられたのである。第三期(両大戦間期)を分析した第4章では、社会事業、学校看護師、林間学校活動など、子どもの健康をめぐって、コミューン、国、民間の連携あるいは協調が顕著であった両大戦間期を検討した。治療機関や林間学校および野外学校などの充実にともない、衛生状態の改善も相まって、学校で求められるのは児童の日常的なケアであり、家庭との連絡をつけることとなった。子どもの健康を管理できるのは学校だけではなくなったのである。公衆衛生行政におけるコミューン当局の実行力の有無について、リヨンの学校衛生から見た衛生事務所は十分に機能したと評価した。むしろ、学校という場においてこそ、衛生事務所はその真価を存分に発揮したと思われる。公衆衛生の役割について、第二期から学校衛生と医療の接近が著しく見られ、第三期になるとコミューン行政にとって学校衛生は社会的扶助の一角を占めるようになったことを述べた。その背景には、連帯主義的な態度のほかに、社会における医療への期待や健康への志向といった変化があった。林間学校活動における参加児童の増加や野外学校の増加には、より良い生を求めた結果であるとも考えられた。そして、民間におけるフィランスロピーがそれらの活動を下支えした。学校看護師の存在もまた、日々の子どものニーズに合わせて必要とされたのであった。学校衛生は、為政者側から児童への一方向のものではなく、児童や彼らを取りまく社会の側の要求を反映した結果でもあったのではないかと考えた。
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Collection (particular)国立国会図書館デジタルコレクション > デジタル化資料 > 博士論文
Date Accepted (W3CDTF)2021-05-28T01:36:28+09:00
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