Confidential U.S. State Department Special Files, Japan 1947-1956

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憲政資料室 作成

資料群名(日本語)

国務省 ロト・ファイル:日本

請求記号

LOT

資料形態

マイクロフィルム

数量

39巻

主言語

英語

主な内容

以下の3種類のファイルから構成されている。

54-D-423: Japanese Peace Treaty (Files of John Foster Dulles), 1947-1952 対日講和条約(ダレスファイル)
対日講和条約担当であったジョン・フォスター・ダレス関連の文書。事項ファイル14ボックス、電信ファイル6ボックス、その他4ボックスより成る。ダレス自身が使用していたBlack Book(ダレス黒書)を含む。
事項ファイルには、以下の項目がある。アルファベット順に、アチソン国務長官、司法長官室、オーストラリア、ベルギー、日米安保条約及び行政協定、ビルマ、カナダ、セイロン、中国、日中二国間条約問題(ダレス黒書)、連邦議会議員(A-Z)、防衛、サンフランシスコ会議代表団−一般、サンフランシスコ会議代表団−取決め・手続規則等、サンフランシスコ会議代表団−その他政府参加、サンフランシスコ会議代表団−対日講和会議説明資料集、サンフランシスコ会議代表−米国職員、ジョン・F・ダレス−韓日出張ダレス日記、ダレス黒書、極東委員会、漁業、フランス、一般、ドイツ、ギリシャ、インド、インドシナ、インドネシア、情報報告書、イラン、島嶼(樺太、千島、琉球)、イタリア、日本出張、日韓出張、日本国憲法、講和条約その他の事項への日本の意見、対日講和条約、条約後の日本、韓国、ラテン・アメリカ、マッカーサー、雑、国家安全保障会議、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、太平洋協定、パキスタン、フィリピン、ポーランド、ポルトガル、世論調査、批准、賠償、リッジウェイ、ジョン・D・ロックフェラー、シーボルト大使、中ソ条約、スペイン、タイ、通商、財務省、条約文書、条約草案、条約史、英国、ソ連、ホワイト・ハウス、吉田首相、ユーゴスラビア。
57-D-149: Records of the Bureau of Far Eastern Affairs, Office of Northeast Asian Affairs (Japan), 1952-1954 極東局北東アジア部文書(日本)
日本に関する事項ファイル。7ボックス。日米間の政治、軍事、通商、文化問題、日本の内政・外政、日本の経済状況に関する覚書、報告書、国務省内のワーキング・グループ議事録、など。
58-D-118 and 58-D-637: Office of Northeast Asian Affairs, Japan Subject Files, 1947-1956 北東アジア部日本事項ファイル
10ボックス。主に主権回復後の日本にかかわるさまざまな問題に関するファイル。日本への余剰農産物の売却、日本から接収した文書(外務省文書等)の返還、戦犯の恩赦・仮釈放問題、奄美大島返還、沖縄の状況、行政協定に基づく日米合同委員会議事録、行政協定実施のための取極、日本の通商、日本の対外関係、日本の米軍駐留費分担、日本の原子力研究・開発、など。
歴史

1949年9月、国務長官アチソン(Dean Acheson)は、占領の長期化は日本国民の反発を招くため、日本を西側陣営にとどめおくためには宥和的な対日講和条約の早期締結が必要であるという観点から、条約早期締結を図る方針を決めた。これに対し、国防総省は、米国の安全のためには、日本における米軍のプレゼンスと、占領による日本国内の基地を無限定に使用する権利の継続が必要であるとして、対日講和条約交渉を時期尚早と反対し、両省の意見は対立した。
1950年5月、極東担当国務次官補からスウェーデン大使に転任するバターワース(W. Walton Butterworth)に代わり、4月に国務長官顧問に就任していたダレス(John Foster Dulles)が対日講和条約担当に任命され、北東アジア部長アリソン(John M. Allison)がその補佐とされた。ダレスは、1950年6月に訪日しマッカーサー、吉田首相と会談するとともに、同時期に訪日していた国防長官ジョンソン(Louis A. Johnson)と統合参謀本部議長ブラドリー(Omar N. Bradley)とも会談を重ね、これにより両省の意見の対立は解消された。夏には国防総省マグルダ少将(Carter Magruder)とアリソンとの間で講和条約と条約締結後の日本の安全保障の問題について意見調整が行われ、両省は合意に至り、9月7日に国務長官アチソンと国防長官ジョンソンが覚書に署名し、講和条約調印の1年前にあたる同月8日トルーマン大統領がこれを承認した。ここで、講和条約では日本の自衛権を認め、条約締結後の米軍の駐留を認めること、日米二国間の安全保障に関しては条約と同時に発効する二国間の協定により定めること、講和条約のための調整は、各国が一堂に会して話し合うのではなく、米国と極東委員会の米国の友好国との間の二国間の協議の中で行い、関係国と一通り協議した段階で日本に行き、マッカーサー、日本政府とも協議し、これらの協議と並行して上院外交委員会・軍事委員会の委員と非公式に協議することなどの方針が合意された。その後、この方針に従ってダレスは協議に入った。
1951年1月25日、ダレスは、陸軍次官補ジョンソン(Earl Johnson)、マグルダ、アリソン、国務省のフィアリ(Robert Fearey)、ロックフェラー3世(John D. Rockefeller III)らを伴って2度目の訪日をし、2月にオーストラリア、ニュージーランドを訪問、4月に3度目の訪日をした。
1951年4月上旬、英国が条約草案をまとめ、その後、英米間で合同草案の調整を行い、ダレスは6月に英仏両国を訪問、7月半ばに英米の合同案を確定し、各国に回付し8月半ばには最終案を確定した。サンフランシスコ講和会議は、国務長官アチソンの議長の下、9月5日から開催され、9月8日講和条約が調印された。

原所蔵機関

米国国立公文書館所蔵(RG 59)

受入

この文書はUniversity Publications of America 社がマイクロフィルム化して市販している。当館では、1997年度に購入した。

検索手段

マイクロフィルム付属の目録(憲政資料室内備付冊子目録)
※ProQuest社のサイトに目録のPDFファイル(3.9MB)Leave the NDL website. が掲載されている。

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