オランダを通して世界をのぞく
知識を世界に求めて―明治維新前後の翻訳事情―
『解体新書』の刊行と蘭学の興隆
幕府が「鎖国」体制をとった主たる目的は、キリスト教の禁止を徹底することにありました。このため、洋書の輸入を厳しく取り締まっていましたが、8代将軍徳川吉宗は実学奨励の政策をとり、享保5(1720)年、キリスト教に関係のない書物の輸入を緩和しました。これによってオランダ語訳の西洋学術書も輸入されるようになり、医学・天文学・暦学等の分野を中心に、蘭学への関心が高まっていきます。そして、安永3(1774)年には我が国初の西洋医学の翻訳書である『解体新書』が刊行されました。
他方、この頃から我が国の近海に異国船が来航するようになります。特に北方からのロシア船の来航により、海防と世界地誌への関心が高まっていきました。そのような状況の中、幕府は文化8(1811)年、それまで翻訳業務を兼務していた天文方に、翻訳を主たる任務とする蛮書和解御用を新設しました。この蛮書和解御用において、フランス人ショメールが編纂した『日用百科事典』のオランダ語版からの翻訳事業が進められ、オランダ通詞の馬場佐十郎、蘭学者の大槻玄沢や宇田川榕菴らが活躍することになります。
解体新書 4巻序図1巻
ドイツ人クルムス(J. A. Kulmus)著のAnatomische Tabellenの蘭語版、Ontleedkundige Tafelen(通称『ターヘル・アナトミア』)からの翻訳。翻訳は蘭学者、蘭方医の前野良沢と杉田玄白を中心に行われたが、辞書のない時代の翻訳作業は困難を極めた。その苦労は杉田玄白の回想録『蘭学事始』に克明に記されている。
輿地誌略
ドイツ人ヒュブナー(Johann Hübner)著の地理書の蘭語版Algemeene geographieから蘭学者・青地林宗が抄訳。渡辺崋山旧蔵本。ヒュブナーの地理書は、世界地理の情報源として蘭学者に特に重視された資料であり、地理学一般を意味する「ゼオガラヒー」の名で呼び習わされた。同じく「ゼオガラヒー」を底本として丹波福知山藩主・朽木昌綱が翻訳した『泰西輿地図説』では、パリの地図が日本で初めて紹介された。
新撰地誌・新釈輿地図説
オランダ人プリンセン(P. J. Prinsen)の『世界地理書』(Geographische Oefeningen)第2版(1817年)から小関三英が抄訳した『新撰地誌』の一部分を、渡辺崋山が筆写校正したものが『新釈輿地図説』。天保10(1839)年の蛮社の獄で崋山が捕えられた際に、証拠品として没収された。
坤輿図識 5巻補4巻
洋学者、箕作阮甫の養子で地理学者の箕作省吾が、プリンセンの『世界地理書』等、数種類の蘭書を基にして編訳した地理書。弘化2(1845)年刊行。我が国でそれまでに刊行された世界地理書で言及されていない地域を収録しており、初めて全世界を明らかにした力作として多くの志士や知識人に読まれた。
英文鑑
日本語による初の英文法書。展示資料は『英文鑑』唯一の伝存稿本である。英文法の父とも言われるマレー(Lindley Murray)のEnglish Grammarの蘭語版からの翻訳であり、巻1の展示箇所には翻訳を手掛けた天文方見習の渋川敬直の名が見られる。巻3の展示箇所は添名辞(形容詞)を説明している部分であり、名詞の性別や単複により形が変化しないこと、原形・比較級・最上級が存在することなどが説明されている。
幕府の一大事業『厚生新編』の翻訳
文化8(1811)年、蛮書和解御用による『厚生新編』の翻訳事業が始まりました。
ショメール編『日用百科事典』のオランダ語版第2版(1778年刊)からの重訳であり、馬場佐十郎、大槻玄沢、宇田川榕菴らが分担して翻訳にあたりました。この事業は『日用百科事典』全編を翻訳するものではなく、「民の殷富や無病安寧のためになる事柄を収録する」という編纂方針に則り、訳出項目の取捨選択がなされています。
『厚生新編』は稿本のまま未完で終わってしまったため、編纂方針で述べられた国民生活の向上発展に直接寄与することはありませんでしたが、この翻訳作業に参加した蘭学者らは、幕府に登用されたりすることで蘭学者の地位の向上や蘭学の発達・普及に貢献しました。
『厚生新編』の翻訳を主導した人々
- 馬場佐十郎(1787-1822)
- オランダ通詞出身であり、オランダ語のほかフランス語、英語、ロシア語を学んで諸言語に通じた人物。見習いの通詞だった頃からその語学力は高く評価されており、蛮書和解御用の新設に際して江戸に招致され、大槻玄沢とともに『厚生新編』の翻訳を開始した。
- 大槻玄沢(1757-1827)
- 『解体新書』の翻訳を行った前野良沢・杉田玄白の弟子。仙台藩医を務める傍ら、蘭学塾である芝蘭堂を開き、蘭学教育にあたった。馬場佐十郎とともに『厚生新編』の翻訳を開始し、前半部分の翻訳や校正を担当した。
- 宇田川玄真(1769-1834)
- 蘭学者、津山藩医。同じく蘭学者、津山藩医である宇田川玄随の養子。馬場に代わって『厚生新編』の翻訳に参加し、玄沢の没後にはこの事業を主導した。玄真が事業を主導するようになった時期から翻訳を担当する人数が増えた。
- 宇田川榕菴(1798-1846)
- 宇田川玄真の養子で蘭学者、津山藩医。西洋自然科学の紹介に努めた人物でもある。文政9(1826)年に蛮書和解御用訳員となり、『厚生新編』の翻訳事業に加わった。玄真の没後は事業の中心的役割を担った。
翻訳から生まれた「鎖国」
輸入された蘭書の中に、日本での見聞を世界に紹介した、ドイツ人ケンペルの『日本誌』があります。ケンペルは、元禄3(1690)年に出島のオランダ商館付きの医師として来日し、2年間にわたって日本研究に取り組み、帰国後、アジア諸国を紹介する『廻国奇観』を著しました。また、彼の死後、未発表の遺稿が英訳され、『日本誌』として1727年に出版されました。『日本誌』はフランス語やオランダ語、ドイツ語等に重訳され、18世紀ヨーロッパの知識人たちの日本観、日本人観を形成する基本情報となりました。
この『日本誌』には付録として、「日本王国が最良の見識によって自国人の出国及び外国人の入国・交易を禁じていること」という論文が収録されています。享和元(1801)年、オランダ通詞の志筑忠雄がこの論文を訳出して『鎖国論』と題したことから、ここに「鎖国」という翻訳語が誕生します。
この当時、世界は日本をどのように見ていたのでしょうか。そして日本はそれをどう受け止めていたのでしょう。『鎖国論』の流布の過程とともに紹介します。
鎖国論訳解(中古叢書81-83)
オランダ通詞・志筑忠雄訳の『鎖国論』の写本の一つ。冒頭の訳例(凡例)には、「日本志の中にて金骨ともいふへき所」を訳出した旨が書かれている。志筑はここで初めて「鎖国論」という名辞を用いた。本書には、ケンペルによる註の訳出に加え、随所に志筑による註が見られる。
展示箇所は「鎖国」体制の完成を述べた部分であり、キリシタンに対する苛烈な弾圧が行われたこと、国が閉ざされ(「鎖閉」され)て海外との交易制限が行われたことが書かれている。
異人恐怖伝
国学者・黒沢翁満が、『鎖国論』に後編として黒沢の見解である「刻異人恐怖傳論」を加えて上梓した刊本。「刻異人恐怖傳論」の末尾に、「御国の勝れて強く尊く万の国に秀たる事を今の人に悟らしむる」ために刊行したことや、志筑忠雄の『鎖国論』という題は原著者ケンペルの意ではないとして改題したこと、誤字脱字・てにをはを改めた旨の説明がある。
『鎖国論』の流布と読み継いだ人々
志筑忠雄が訳出した『鎖国論』は、黒沢翁満により『異人恐怖伝』の名前で出されるまで刊本として世に出ることはなく、主に転写されて流布し、多くの知識人に読み継がれました。例えば、幕末から明治にかけて活躍した幕臣・勝海舟も『鎖国論』を読んだ一人です。流布本には、幕臣であり、文人であった大田南畝が「読鎖国論」と題した序または跋文を付したものがあり、『鎖国論』の普及に南畝が一役担ったと考えられます。
『鎖国論』を読んだのは主に国学者や蘭学者などの知識人階層でしたが、江戸期において『鎖国論』が批判的に受け止められた例はほとんど確認されていません。ケンペルの意見を日本賛美論だとして解釈し、自著に『鎖国論』を引用した国学者の平田篤胤のように、海外に対する日本の優位性を説くための材料として用いられることが多かったようです。なお、『鎖国論』の写本は全国に90点以上存在しています。
ゴロウニンと天文方・馬場佐十郎
度重なるロシア船の来航で日本の海防意識が高まっていた文化8(1811)年、国後島でロシア軍艦ディアナ号艦長のゴロウニンとその部下が松前奉行配下の役人に捕えられ、監禁される事件が起こりました。幕府はこの時、ロシア語学習の必要性から、天文方に出仕していたオランダ通詞の馬場佐十郎らに、ゴロウニンから直接ロシア語を学ぶよう命じました。
事件の報復としてロシアに拿捕された商人、高田屋嘉兵衛の尽力もあって、文化10(1813)年、ゴロウニンは釈放されて帰国し、日本での生活の見聞録を著しました。彼が示した日本人観は、第2節で紹介したケンペル『日本誌』以来の情報源として短期間のうちに各国語に翻訳されましたが、日本に輸入されたオランダ語版を翻訳したのは、他ならぬ馬場佐十郎でした。
遭厄日本紀事 12巻附録2巻
ゴロウニンの手記の蘭語版からの翻訳書であり、本編12巻と付録2巻から成る。ゴロウニンから直接ロシア語を教授された馬場佐十郎が翻訳にあたった。 ゴロウニンによると、馬場は未知のロシア語を聞く度に、持参した蘭仏辞書を参照する学習方法を採っていた。馬場のロシア語習得が、彼の高い語学力の上に成り立っていたことが分かるエピソードである。
ロシア語学習事始め
日本のロシア語学習は、ロシアに漂流し帰還した大黒屋光太夫が、文化5(1808)年から2年以上にわたって馬場佐十郎らにロシア語を伝授したことに始まります。その後ロシア語学習は、監禁されたゴロウニンに接した馬場のほかに、上原熊次郎、村上貞助、足立左内の3人によって進められました。
アイヌ語通訳である蝦夷通詞の上原は、ゴロウニンの通訳に従事し、アイヌ語を介してゴロウニンと意思疎通を重ねる中でロシア語を理解していきました。松前奉行同心であった村上は、ゴロウニンとその部下ムールから薫陶を受けてロシア語を習い、短期間で習熟しました。その語学力と発音能力の高さはゴロウニンたちを驚かせました。暦算家の足立もまた、ゴロウニンからロシア語を学び、後に『魯西亜辞書』を上梓します。
漂流民やアイヌ、ロシア人捕囚を通じて学ぶという方法は、長崎経由で入手する漢籍・蘭書を通じての方法とは全く性質の異なるものでした。文字情報だけでなく、ロシア人との直接の交流の中で学ぶ機会を得られたことによって、単なる語学学習を超えて西洋文化の一部に触れることとなりました。
実際の展示資料
- 1. 解体新書 4巻序図1巻
- キュルムス 著 〔前野良沢〕・杉田玄白翼 訳 中川淳庵鱗 校 桂川甫周世民 閲 小田野直武 画 須原屋市兵衛 安永3(1774)年【わ490.9-15】
- 2. Algemeene geographie
- Te Amsteldam : P. Meijer 1769【蘭-299】
- 3. 泰西輿地図説 17巻
- 朽木昌綱 訳 蔦屋重三郎 享和4(1804)年【136-233】
- 4. 輿地誌略
- 青地盈林宗 訳【寄別14-1】
- 5. 英文鑑(天文方渋川家関係資料)
- 澁川敬直 述 藤井質 訂補 写【WB32-4】
- 6. Geographische oefeningen 4e dr.W
- Amsterdam : Johannes van der Hey en zoon 1834【蘭-319】
- 7. 新撰地誌
- 写【寄別14-2】
- 8. 新釈輿地図説
- 渡辺崋山 写【WA21-5】
- 9. 坤輿図識 5巻補4巻
- 箕作寛 著 須原屋伊八ほか 弘化2(1845)~弘化4(1847)年【特2-570】
- 10. 坤輿図識 補編 巻3
- 箕作省吾 著 写【箕作阮甫・麟祥関係文書(寄託)33】
- 11. De beschryving van Japan
- 1729【蘭-668】
- 12. 鎖国論訳解(中古叢書81-83)
- ケンペル 著 志筑忠雄 訳 写【わ081-9】
- 13. 異人恐怖伝
- 検夫爾 著 志筑忠雄 訳 黒沢翁満 編 嘉永3(1850)年【121-221】
- 14. Записки флота капитана Головнина о приключенiяхъ его въ плѣну у японцевъ въ 1811, 1812 и 1813 годахъ
- Bъ Санктпетербургъ : Bъ Морскоŭ 1816【915.2-G628zf】
- 15. Mijne lotgevallen in mijne gevangenschap bij de Japanners, gedurende de jaren 1812 en 1813
- Dordrecht : A. Blussé 1817-1818【蘭-652】
- 15. (参考) Voyage de M.Golovnin, ... contenant le récit de sa captivité chez les Japonois, pendant les années 1811, 1812 et 1813
- Paris : Gide Fils 1818【D-21】
- 15. (参考)Narrative of my captivity in Japan during ... 1811, 1812, and 1813
- London : H. Colburn 1818【GB391-11】
- 16. 遭厄日本紀事 12巻附録2巻
- 兀老尹 著 馬場貞由・杉田予・青地盈 訳 高橋景保 校 写 文政8(1825)年【W221-17】