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原文尊重を目指して

知識を世界に求めて―明治維新前後の翻訳事情―

明治の翻訳文学は、明治18(1885)年、『繋思談』の登場によって大きな転換点を迎えます。リットン原作のKenelm Chillinglyの翻訳である本書は、原文尊重を目指し、「周密文体」といわれる逐語訳に近い文体で翻訳されました。訳者はその「例言」において、翻訳とは原文に忠実であるべきと訴えました。この主張は、自由訳による翻案や抄訳一辺倒といった当時の翻訳態度に一石を投じました。

このような問題提起がなされた背景としては、東京帝国大学英文科の設置をはじめとする英文学の研究体制の確立や、明治に入ってから教育を受けた高い語学力を有する世代の台頭などが挙げられます。こうした変化が、原文の正確な理解を要する「周密文体」の成立につながりました。

『繋思談』を境に翻訳者たちの意識は大きく変わり、「翻訳王」と称された森田思軒を中心に、原文尊重を目指す翻訳態度が主流となっていきます。明治20年代、翻訳文学は大きな発展を遂げ、黄金期を迎えました。

『繋思談』の「例言」から

『繋思談』の「例言」は、明治期の翻訳文学に最大の転機をもたらした、重要なテキストです。その前半では、小説とは文章による芸術であり、翻訳家は原作の内容を写し取るだけでなく、文章表現にも気を遣うべきと述べています。後半では、翻訳者の心構えとして、「原文の語句」を一字一句「増損」しないという姿勢に徹すべきと主張しています。

この「例言」において特に注目されるのは、西洋の小説に見られる「精緻の思想」を写し取るための、新たな訳文体の創造が必要であることを訴えた点です。従来の漢文調に、原文の英語を直訳した欧文直訳体が入り交じった「周密文体」を用いた本作は、まさに「例言」で示された翻訳方針の実践と言えます。

例言抜粋

稗史ハ文ノ美術ニ属セルモノナルガ故ニ構案ト文辞ト相俟テ其妙ヲ見ルベキモノナルコト論ヲ待タザルニ世ノ訳家多クハ其構案ノミヲ取リテ之ヲ表発スルノ文辞ニ於テハ絶テ心ヲ用ヰルコトナク全ク原文ノ真相ヲ失フモ
相謀テ一種ノ訳文体ヲ創意シ語格ノ許サン限リハ努メテ原文ノ形貌面目ヲ存センコトヲ期シコレガ為ニハ些末ニ渉レル邦文ノ法度ノ如キハ寧ロ之ヲ破ルモ肯テ顧ミル所ニ非ズ精緻ノ思想ヲ叙述スルニ方リ往々已ムベカラザスモノアレバナリ
故ニ原文ノ語句ヲ増損セザルガ如キハ得テ能クスベキノコトニ非ズ

大意

小説とは、文章による芸術であり、その美しさは内容と文章表現があいまって初めて見られるものであるが、世の翻訳家の多くはその内容のみを取り上げ、文章表現については無関心であり、原文の真の姿は失われている。
しかし、西洋の「精緻の思想」を写しとるためには、原文の語句を一字一句おろそかにしない姿勢に徹し、原文の形式に忠実な新しい訳文体を創り出す必要がある。

翻訳王 森田思軒

翻訳王・森田思軒(1861-1897)は、ジュール・ヴェルヌ、ヴィクトル・ユーゴー、エドガー・アラン・ポーをはじめとする多くの外国文学を我が国に紹介しました。中でも、彼の訳したヴェルヌの冒険小説は多くの読者を楽しませますが、そこには西洋の科学知識を読者に広めるという啓蒙的な意味合いもありました。思軒はまた、立憲改進党の機関紙『郵便報知新聞』で事実上の編集責任者としても活躍していました。

『繋思談』の翻訳態度を受け継ぎ、思軒は原作の筋書を追うような翻案ではなく、原文の文章や語句の長さ、漢字一文字にも注意を払って忠実に訳出しようとしました。高い語学力を有する思軒の手によって「周密文体」が完成したとされます。『探偵ユーベル』では、逐語訳をベースとした「周密文体」の精緻な漢文調の文体を見ることができます。

ヴィクトル・ユーゴーの遺稿集Choses vuesの中の一節を森田思軒が翻訳したもの。我が国におけるユーゴー作品の翻訳としては早期のものであり、作者が実際に遭遇したスパイ裁判事件が描かれている。思軒の精緻な文体には、後に口語体翻訳の先駆をなす二葉亭四迷も感銘を受け、愛読したと言われる。

『探偵ユーベル』の周密文体

原文

Yesterday, the 20th of October, 1853, contrary to my custom, I went into the town in the evening. I had written two letters, one to Schoelcher in London, the other to Samuel in Brussels, and I wished to post them myself. I was returning by moonlight, about half-past nine, when, as I was passing the place which we call Tap et Flac, a kind of small square opposite Gosset the grocer's, an affrighted group approached me.

翻訳文

昨日、一千八百五十三年十月二十日、余は常に異なりて夜に入り府内に赴けり此日余は倫敦に在るショールセルに一通ブラッセルに在るサミュールに一通合せて二通の手紙をしたゝめたれば自から之を郵便に出さんと欲せしなり九時半の比ほひ余は月光を踏みつゝ帰り来りて雑貨商ゴスセットの家の前なる隙地我々のタプヱフラクと呼べる所を過ぐるとき忽ち走せ来る一群の人あり余に近つけり

関連する人物

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実際の展示資料

184. 繋思談 : 諷世嘲俗 初編
李頓 著・美郷 画・藤田茂吉 尾崎庸夫 合訳 藤田茂吉 明治 18(1885)年【933-cL99k-H】
185. Kenelm Chillingly : his adventures and opinions
Edward Bulwer Lytton Routledge 1897【111-97】
186. 瞽使者
ジュール・ヴェルーヌ 著・森田思軒 訳 報知社 明治 21(1888)・24(1891)年【特 13-628】
187. Michael Strogoff
Jules Verne Sampson Low, Marston, Searle & Rivington 1883【35-326】
188. 探偵ユーベル
ユーゴー 著・森田思軒 訳 民友社 明治 22(1889)年【特 13-765】
189. Things seen (choses vues)
Victor Hugo Harper 1887【89-18】
190. 十五少年
ジュウールス・ヴェルヌ 著・森田思軒 訳 博文館 明治 29(1896)年【74-24】

知識を世界に求めて
―明治維新前後の翻訳事情―

このページは令和4年に開催した企画展示「知識を世界に求めて―明治維新前後の翻訳事情―」を元に再構成したコンテンツです。

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