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時代の風雲児・蔦屋重三郎

はじめに

蔦屋重三郎(俗称・蔦重)(1750-1797)が生きた18世紀後半は、町人の暮らしが豊かになって文化が花開いた時代です。しかし一方では、江戸幕府の財政がひっ迫し、改革が行われた時代でもありました。
蔦重は、老中・田沼意次(1719-1788)により積極的な経済政策が行われた時期に、地本(絵草紙など大衆向けの本)の出版を始めます。彼は優れた商才や築き上げた人脈により、日本橋に店を構える江戸の一大版元になりました。時代は移り、やがて松平定信(1758-1829)が老中になると、社会は一変して綱紀粛正・倹約の時代となります。蔦重は圧力を受けながらも、趣向を変えて、人々が手に取る本を晩年まで出版しました。
今回の展示では、風雲児・蔦屋重三郎が生きた時代とともに、彼が残した出版物やその創作に関わった人々を紹介します。

戯作に描かれた蔦重。袖に蔦屋の紋(山形に蔦の葉)がついている。

吉原生まれの風雲児・蔦重

蔦重は、寛延3(1750)年吉原に生まれ、7歳頃に喜多川家(蔦屋)の養子となりました。安永元(1772)年頃、吉原大門の近くで本を扱う商売を始めます。蔦重の店は、後に「耕書堂こうしょどう」と呼ばれるようになりました。

吉原細見

『吉原細見』は、吉原の遊女や芸者などの情報を載せた案内本です。蔦重は、当時有力な版元の鱗形屋(鶴鱗堂かくりんどう)版『吉原細見』の卸売を手掛け、安永4(1775)年には、鱗形屋に代わり版権を入手します。蔦重版『吉原細見』は、丁(ページ)数を減らして価格が抑えられ、正確な情報が掲載されていたとも言われています。また吉原育ちの地縁を生かして、遊郭周辺に盤石な販路を築き、天明3(1783)年初めまでには、『吉原細見』の出版を蔦重が独占しました(1)

『名華選』

名華選

吉原大門周辺

安永5(1776)年出版の吉原細見。吉原大門周辺を描いた上画像では、赤線部分に「本屋重三郎」とある。

名華選

名華選

巻末「吉原名物」

巻末に「吉原名物」欄が載るなど、蔦重版『吉原細見』は広告機能も付加された。

『吉原細見五葉松』

朱楽菅江の狂歌と蔵版目録(巻末)

序文を戯作者・朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ、跋文を大田南畝が寄せ、巻末には狂歌師・朱楽菅江あけらかんこうの狂歌と耕書堂の蔵版目録が載る。

青楼美人合姿鏡

『吉原細見』を出版する傍ら、安永5(1776)年に蔦重は、山崎金兵衛と共同で多色刷絵本の『青楼せいろう美人あわせ姿鏡』を出版します。吉原の遊女が美麗に描かれたこの絵本は、蔦重が中心に企画・制作をしたと言われ(2)、当時の絵師として名高い勝川春章かつかわしゅんしょう(1726-1792)、北尾重政きたおしげまさ(1739-1820)が画を担当しました。

江戸の版元へ 風雲児・蔦重の黄金期

蔦重が次に取り掛かったのは浄瑠璃の富本節とみもとぶしの台本や往来物(手習いや稽古事の教科書)の出版です。これらの出版を通じて店の経営安定を図り、事業を拡大させました。また、当時徐々に人気を集めていた黄表紙や洒落本の出版に新規参入します。さらに天明3(1783)年には、有力な版元が集まる日本橋通油町とおりあぶらちょうに進出し、江戸を代表する版元の仲間入りを果たしました。ここでは、天明年間を代表する黄表紙や洒落本、狂歌本を紹介します。

葛飾北斎が描いた当時の絵草紙店。店先には多くの浮世絵が並べられ、その奥で職人が製本している様子が描かれている。暖簾や行燈から「耕書堂」であることが分かる。

戯作出版 黄表紙と洒落本

黄表紙は戯作の一種で、滑稽な発想の物語に当世の時事や風刺を織り込んだ絵草紙です。安永4(1775)年の恋川春町『金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ』(鱗形屋版)が火付け役となり、天明年間(1781~1789)には全盛期を迎えました。洒落本は、遊郭を舞台として内部の振舞いを面白おかしく描いたり、裏事情を紹介したりする会話中心の戯作です。
版元として新参の蔦重が、戯作の世界に飛び込めたのは、戯作者たちとの人脈を築く力に長けていたからと言われています(3)。蔦重の戯作出版を初期から支えていたのは、朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ(1735-1813)や恋川春町(1744-1789)、大田南畝なんぽ(1749-1823)ら、余技として戯作に興じていた武士層です。

朋誠堂喜三二作。主人公の清太郎が、うたた寝をした夢のなかで五十年の栄華の夢を見て、夢の中で破産した頃に二重の夢から覚めるという内容の黄表紙。江戸や吉原の繁栄を目にする当時の庶民が持っていた、夢の中だけでも栄華を楽しみたいという理想を描いた(4)

絵草紙評判記

菊寿草

大田南畝による絵草紙評判記『菊寿草』で、喜三二作の『見徳一炊夢』が天明元(1781)年「立役ノ部」の最上位に付された。ここから蔦重と南畝の交流が始まったと言われている(5)

恋川春町作画。猿蟹合戦、源平合戦、浦島太郎などを混ぜこぜにした黄表紙。春町は、鳥山石燕に絵を学び、戯作と画の両方で活躍した。

活字版へのリンク(『猿蟹遠昔噺』)

武家生まれとされる唐来参和とうらいさんな(1744-1810)作。タイトル「きるなのねからかねのなるき」が回文になっている。お金がありすぎて苦しむという当時の庶民の現実と乖離する内容を描いた黄表紙。

活字版へのリンク(『莫切自根金生木』)

蔦重の下で戯作の才能を開花させる山東京伝さんとうきょうでん(1761-1816)は、北尾重政門下で画家・北尾政演まさのぶとしても活動し、戯作と作画の両方に優れました。天明5(1785)年に出版された黄表紙『江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき』や天明7(1787)年出版の洒落本『通言総籬|つうげんそうまがき』などで、人気を不動のものにしました。

百万長者の息子・えん次郎は醜いうえに自惚れが強く、金に任せて浮名を広めようとするが失敗する話。画像の場面は、遊女を身請けしたが道中で盗賊に遭うシーン。

活字版へのリンク(『江戸生艶気樺焼』)

遊郭での遊びや実在の「松葉屋」をモデルとした当時の吉原の様子を描く。作中には、『江戸生艶気樺焼』の登場人物・艶次郎などが用いられている。

活字版へのリンク『通言総籬』

狂歌

黄表紙や洒落本などの戯作と並んで、天明年間に江戸で流行していたのが狂歌です。和歌と同様に五・七・五・七・七の形式で詠み、中身は俗世的な機知や滑稽を歌うものでした。狂歌師たちは「れん」と呼ばれるサークルで作歌に興じ、蔦重自身も「蔦唐丸つたからまる」と名乗って「吉原連」に加わりました。彼は、狂歌界の筆頭だった四方赤良よものあから(大田南畝)や朱楽菅江あけらかんこう(1738?-1798?)、唐衣橘洲からごろもきっしゅう(1743-1802)、宿屋飯盛やどやのめしもり(石川雅望まさもち)(1753-1830)、戯作者の手柄岡持てがらおかもち(朋誠堂喜三二)や酒上不埒さけのうえのふらち(恋川春町)など多くの狂歌師と交流を持ち狂歌の会に参加しました(6)。蔦重は狂歌を楽しむだけではなく、仲間と狂歌本や狂歌絵本の出版に取り組みます。

四方赤良

朱楽菅江

唐衣橘洲

宿屋飯盛

手柄岡持

狂歌絵本

とりわけ絵と狂歌を合わせた狂歌絵本は評判になりました。絵師として登用したのは、蔦重版の黄表紙の挿絵などを描いていた喜多川歌麿(1753?-1806)です。蔦重は多くの狂歌絵本を手掛け、なかでも歌麿の三部作『画本虫撰えほんむしえらみ』『潮干のつと』『百千鳥』は緻密な作画と彫摺が美しい豪華な仕上がりになっています(7)

画本虫撰

潮干のつと

百千鳥

出版統制 ~蔦重の大勝負~

戯作から退陣した武士層と山東京伝

耕書堂が黄表紙、洒落本、狂歌絵本などで大繁盛していたさなか、天明7(1787)年には松平定信による寛政の改革が始まり、華美な風俗の取り締まりや武士の綱紀粛正が図られました。大田南畝は同年には戯作・狂歌界から身を引いています(8)。一方、蔦重は世相の変化を逆手にとり、改革を茶化すような戯作を出版しました。朋誠堂喜三二『文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくどおし』(天明8)と恋川春町『鸚鵡返文武二道おうむがえしぶんぶのふたみち』(寛政元、1789)です。

両書とも田沼意次の失脚や松平定信の改革を題材にし、人々に好評を博しました。内容には、改革政治で混乱する武士や定信の政策への揶揄を含んだために、主家である秋田佐竹藩から叱責を受けた喜三二は戯作から手を引きました。また幕府の召喚に応じなかった春町はその後没しました。

活字版へのリンク(『文武二道万石通』)
活字版へのリンク(『鸚鵡返文武二道』)

町人出身の山東京伝は、武士層の退陣後も戯作を続け、話題の傑作を生みだしていました。ところが、寛政3(1791)年に出した洒落本『仕懸しかけ文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭しょうぎきぬぶるい』で処罰されます。

活字版へのリンク(『仕懸文庫』)
活字版へのリンク(『青楼昼之世界錦之裏』)

3冊を対象とした処罰は、蔦重は身代(財産)の半減、京伝は手鎖50日と言われています。この頃から黄表紙の内容は滑稽を楽しむものから教訓的なものに変化(9)、洒落本の出版は減少し、蔦重の戯作出版は天明年間と比べて縮小しました。

浮世絵 インパクトを求めて

同じ寛政3(1791)年頃から、蔦重は浮世絵の出版を本格化させました(10)

歌麿の美人画

蔦重は、挿絵や狂歌絵本で活躍した喜多川歌麿を起用して美人画を出版しました。歌麿が描いた大首絵は上半身を強調したもので、全身画が主流だった当時の美人画と比べインパクトがありました。精緻な絵画に秀でた歌麿は、わずかな表情の機微までを大首絵で表現しました。また、雲母うんもや貝殻の粉で背景を塗りつぶして美しく見せる雲母刷きらずりの技法も取られました。

当時三美人(寛政三美人)

寛政4~5(1792~1793)年頃に茶屋の看板娘を描いた、「難波なにわ屋おきた」「高島おひさ」「富本豊雛とみもととよひな」は、寛政の三美人として人気を博しました。

歌麿筆浮世絵

寛政の三美人

寛政の三美人を「難波屋おきた」「高島おひさ」「菊本おはん」とする説もある。

本の万華鏡第34回「推し活狂騒曲」 第一幕 会える推し 茶屋娘

『婦女人相十品』

歌麿筆浮世絵

煙草の煙を吹く女

歌麿筆浮世絵

文読む女

『青楼十二時 続』

吉原の遊女の一日を一刻ごとに書き分けた揃い物です。

歌麿筆浮世絵

青楼十二時 続 午ノ刻

午の刻(正午頃)。昼見世(通りに面した店先で遊女が客引きを行うこと)の身支度の様子。髪を梳かれている花魁がキセルに煙草を詰めながら文を読む。その隙に禿かむろ(遊女見習い)が花魁の鏡で自分の髪のかたちを整える。

歌麿筆浮世絵

青楼十二時 続 丑ノ刻

丑の刻(午前2時頃)。懐紙と蠟燭を手に用を足しに行く遊女。寝ぼけ眼で草履を履いている様子。

東洲斎写楽の役者絵

蔦重のもとで浮世絵を出版し、大首絵でも評判になった歌麿は、次第に蔦重以外の版元から浮世絵を出版するようになります。この時期にあたる寛政6(1794)年5月から、蔦重は出自不明の浮世絵師、東洲斎とうしゅうさい 写楽しゃらくの浮世絵を出版します。デビュー作は28点、写楽はわずか10か月間の活動で140点もの浮世絵を制作したと言われます。代表的な初期の作品は、背景が黒の雲母摺きらずり、写実的な歌舞伎役者の大首絵というインパクトの強いものでした。

写楽名画揃

写楽名画揃

写楽名画揃

おわりに

蔦重は寛政9(1797)年、病により世を去ります。吉原の貸本屋から一代で江戸を代表する版元となった蔦重が残した数々の出版物は、文化を謳歌した時代と、一転して改革で引き締めが図られた真逆の時代をそれぞれ象徴する作品です。戯作者や画家を巧みに巻き込んで流行を先導した蔦重こそ、まさに時代の風雲児でした。

脚注

  1. ^
    鈴木俊幸 著『蔦屋重三郎 新版』(平凡社 2012)、pp.26-27
  2. ^
    同上、p.34
  3. ^
    同上、p.11
  4. ^
    小池正胤, 宇田敏彦, 中山右尚, 棚橋正博 編『江戸の戯作絵本 1』(筑摩書房 2024)
  5. ^
    鈴木俊幸 著『蔦屋重三郎 新版』(平凡社 2012)、p.82
  6. ^
    同上、pp.87-92
  7. ^
    [喜多川歌麿] [画]ほか『歌麿『画本虫撰』『百千鳥狂歌合』『潮干のつと』』(講談社 2018)、pp.162-164
  8. ^
    鈴木俊幸 著『蔦屋重三郎 新版』(平凡社 2012)、p.235
  9. ^
    同上、pp.240-243
  10. ^
    同上、p.218、p.231

参考文献