会津戦争と若松城
若松城(鶴ヶ城)は、会津藩主の居城として戊辰戦争の舞台となった城である。
戊辰戦争の中でも、特に会津での戦いは城下を巻き込んだ凄惨なものとなり、会津戦争とも呼ばれている。
鳥羽・伏見の戦いから江戸開城
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都の鳥羽・伏見で幕府と薩摩藩との間に起った軍事的な衝突は、一気に倒幕のうねりとなり、戊辰戦争が始まった。
3月には、江戸に迫る官軍に対して、幕府は江戸の無血開城を決断するが、江戸開城後も官軍は東北方面に向けて引き続き進撃、会津・新潟の地では東北諸藩と官軍との間で激しい戦いが繰り広げられることになった。
会津戦争
官軍の中心となった薩摩・長州・土佐藩士の中には、幕末に京都守護職として尊王攘夷派に対して厳しい取り締まりを行った会津藩主[松平容保]と会津藩や新選組に対して恨みを抱くものも多く、官軍の会津攻めは、他藩に対するものとは異なった背景をもつものであったとも言われる。官軍が当初会津藩に示した降伏条件も、容保の斬首、城の開城、領地の没収といった厳しい内容で、会津藩にとっては到底受け入れることのできない条件であった。
当初は朝廷と官軍に従う意を示していた会津藩でも、官軍の強硬な姿勢に対して藩内で主戦派が台頭、全面的に抵抗する姿勢に転じた。
戦火に包まれる若松城下
官軍と会津藩との戦闘は、慶応4年閏4月24日(1868年6月14日)の白河城攻防戦で端を開く。戦いは激戦となり、土方歳三率いる新選組の奮闘もあったものの、新式の小銃や大砲を装備した官軍に対して会津勢は次第に劣勢となり、戦火は会津藩本拠である若松城に迫った。
若松城は、櫓など建造物の配置に死角がなく、難攻不落と言われた城である。
会津側は、若松城に老幼婦女子約1,000名を含む、およそ5,000名の人員が立てこもって抵抗を継続、若松城は官軍に包囲され、砲撃を受けることになった。
砲撃により、城内は、「戦酣なるに及び病室は殆ど立錐の余地なきに至り、手断ち足砕けたる者満身糜爛したる者雑然として呻吟す、(中略)西軍の砲撃益々激烈なるに及びては榴弾は病室又は婦人室に破裂して全身を粉韲せられ肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり。其の悲惨凄愴の光景名状すべからず」(『会津戊辰戦史』)との惨状を呈したと言われる。
特に9月14日(同10月29日)の若松城総攻撃は、50門の砲が50発ずつの砲弾を城内に打ち込んだと言われ、「(城には、)四方八方から大砲、小銃の弾が雨のやうに降つてまゐりますので、随分凄まじいもの」(『会津藩戊辰戦争日誌』)であったと伝えられる激しい攻撃であった。
1か月に及ぶ籠城戦で会津勢の物資と戦力は激しく損耗し、9月22日(同11月6日)、若松城は遂に開城、会津戦争は終結した。開城後の城内は、食糧・弾丸もわずかばかりで、負傷者があふれる悲惨な光景だったと言われる。
若松城天守閣
会津戊辰戦史
当時の長州藩兵は開城後の城の様子を次のように証言している。
「じつに哀れ千万で、殿様のいるところもなにも哀れなものだった。城の玄関前から塹壕を深く掘って、そのなかに畳が敷いてあり、皆そこに入っていた。米がわずかに20~30俵しかなかった」(『会津戦争全史』)
会津戦争は会津藩挙げての戦いとなり、会津側の戦死者は約2,400名、戦闘に巻き込まれて殺害された農夫や婦女なども含めると数千名に上ったとの説もある。
また、会津戦争は、婦女子や少年兵が戦闘に参加した点が特徴的な戦いでもあった。
その中には、飯盛山から黒煙に包まれる城下町を見て自刃した少年兵・白虎隊や、足手まといになるとして城に入らず城下の邸宅で一族21名が自害した家老西郷頼母の家族など、今に語り継がれる多くの悲話が生まれている。
後に新島襄の妻となる山本八重も、城に籠り自ら銃を手にして戦った一人である。
明治を生きた会津の人々
戦後、容保は隠退の上、松平家は陸奥国南部地方に移封され、石高も23万石から3万石に激減した。領主に従って陸奥国に移住した会津藩士は17,000名に上り、その多くは風雪厳しい寒冷の地で飢えに苦しみ、多くの餓死者、病死者を出した。
会津戦争から10年が経った明治10(1877)年、西南戦争が勃発すると、多くの元会津藩士が政府軍として従軍した。田原坂の戦いでの元会津藩士の奮戦模様や、会津戦争でも活躍し、「弾が避けて通る」猛将と言われた元会津藩家老佐川官兵衛の奮戦と壮烈な死は現在でも語り継がれている。
同じく、西南戦争に従軍した元会津藩家老の山川大蔵(後改名して山川浩)が、出征時に詠んだ歌「薩摩人 みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」からは、朝敵となって敗戦した元会津藩士の心情が察せられる。
山川大蔵は、後に陸軍少将となり、男爵に列せられた。また、その弟である山川健次郎は、48歳で東京帝国大学総長に就任した他、晩年には枢密顧問官まで務めている。女性では、日清・日露戦争中に篤志看護婦として活躍した新島八重が、同志社女子大学の基礎を作り、多くの学生を育てた。
会津の人々は幕末に深い傷を負いながらも、新しい時代をたくましく生きたようである。