明治の画家、水野年方って?
明治錦絵
水野年方
浮世絵師、日本画家の水野年方。現代では知る人ぞ知る絵師ですが、明治期の浮世絵の大家である月岡芳年の後継者として、明治後期に活躍しました。ここでは年方という人物について、簡単にご紹介します。
年方は慶応2(1866)年、江戸・神田に左官屋の子として生まれました。画才を見込まれて、13歳で月岡芳年に入門し浮世絵を学びました。下の明治18(1885)年刊の浮世絵師の番付表には、12位にランクインしています。このとき年方は19歳。デビューしたての頃であり、彼の早熟さがうかがえます。1位には師匠の芳年の名があります。
彼の仕事は日清戦争を題材とした戦争画から、泉鏡花の『外科室』をはじめとする文芸雑誌の小説挿絵にまで多岐にわたりますが、ここでは「NDLイメージバンク」にも収録されている美人画の作品を中心に見てみましょう。
代表作『三十六佳撰』は明治24-26(1891-93)年にかけて制作されました。作品ではさまざまな時代の女性が当時の風俗とともに描かれています。例えば、下の「懸想文」と題された絵は元禄年間(1688-1704)の女性を描いたものです。顔を白い布で覆った、ちょっと不思議な外見の男性は「懸想文売り」。懸想文(ラブレター)を売り歩きました。
同様のテーマの作品には師、芳年の『風俗三十二相』があります。どちらも女性を主役として昔の風俗を描いていますが、異なる点もあります。その一つに、芳年が寛政年間(1789-1801)から明治にかけての、主に彼自身が生きた時代を描いたのに対し、年方は上代(奈良時代)から弘化年間(1844-1848)までと、はるかに古い時代も描いている点が挙げられます。
年方の弟子の鏑木清方によると、依頼ではなく自ら進んで描く場合は歴史をテーマにすることを好んだといいます。年方の歴史への深い関心が、描く対象の選び方にも表れているのでしょうか。
年方の美人画には同時代を描いたものもあります。その一つ、『今様美人』は明治31-32(1898-1899)年にかけて制作されました。一月なら「御祝儀」、二月なら「観梅」と、月ごとのイベントとともに明治の女性を描いています。下の絵に描かれた部屋には洋風の敷物が見え、明治らしさがうかがえます。
浮世絵師に学んだ年方ですが、後年は日本画に転向し、歴史画を中心に描くようになります。展覧会に出品を重ね、明治31年に第1回日本画展に出品された「佐藤忠信参館図」は宮内庁御用品となりました。日本美術院の特別賛助員として、岡倉天心や横山大観、菱田春草など日本画界の著名人とも交流をもちました。
また、自らの筆で名をはせたのはもちろんですが、指導者としても功績を挙げました。年方の門下には、美人画の名手として知られる鏑木清方や、東のしょうえんとして上村松園と並び称された女性画家の池田蕉園などがいます。
その清方の弟子には「新版画」の伊東深水や川瀬巴水がおり、年方から清方、深水・巴水へと近代日本画の一つの流れを作っていると言えるでしょう。
参考文献
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