第一章 江戸博物誌の歩み
国際化と多様化のなかで―19世紀
描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―
1. 西洋動植物書の到来と影響
江戸時代にはケンペル、ツュンベリー、シーボルトなどが来日するとともに、多くの蘭書も伝わりました。
①D'Amboinsche rariteitkamer…(アンボイナ珍品集成 蘭語版)
G. Eberhard Rumpf著 Amsterdam,1705刊 1冊 <WB31-21>
②『千虫譜』
栗本丹洲著 文化8(1811)序 写本 3冊のうち上巻 <特7-159>
『アンボイナ珍品集成』はモルッカ諸島(ニューギニアの西)に産する海産無脊椎動物と鉱物の研究報告で、60図版を収載します。江戸時代には「ラリテート」と呼ばれることが多かった蘭書です。①は同書のウニ類12品の図で、そのうち7点は栗本丹洲の『千虫譜』(②)に転写されています。また、国立国会図書館蔵『阿蘭陀貝尽』<本別10-30>は本資料(①)の図版のうち半数を転写したものです。
千蟲譜 3巻 [1]
①Duidelyke vertoning, …(花譜 蘭語版)
Johann W. Weinmann著 Amsterdam,1736~48刊 4 v. in 8. <WB32-2(12)>
②『洋名入草木図』
栗本丹州著 自筆本 2帖(東京国立博物館蔵)
③『物印満写眞略』
矢部致知写 文政元(1818)自筆本 1冊 <特1-3375>
ドイツ人ウエインマンの『花譜』(Phytanthoza iconographia)のオランダ語版(①)は、安永2(1773)年以前に日本に入り、広く利用されました。これはカカオの個所です。幕医栗本丹洲は自著『洋名入草木図』(東京国立博物館蔵)(②)に『花譜』の図を86点も正確に転写しました。また、それを再転写した『物印満写眞略』<特1-3375>(③)が当館にありますが、この再転写本の図は図が組み変っているうえに、かなり雑です。
洋名入草木図
物印満写真略
Flora Iaponica(日本植物誌 羅語版)
C. Peter Thunberg著 Leipzig,1784刊 1冊 <別-25>
安永4(1775)年に来日したツュンベリーの著作で、①はその扉です。本資料は、尾張の医師伊藤圭介が長崎を去るときにシーボルトが餞別として贈った本で、圭介は本書をもとに『泰西本草名疏』(次項)を執筆しました。②の後見返しには、圭介からその後継者となった孫篤太郎に与えると記されています。
Flora japonica(日本植物誌)
Flora japonica(日本植物誌)
2. 伊藤圭介編『泰西本草名疏』
本書は前項のツュンベリー著『日本植物誌』に記された学名をABC順に配列し、対応する和名・漢名を記したもので、リンネの分類体系も初めて紹介されています。編纂にあたって圭介はシーボルトの協力を得ますが、折しも「シーボルト事件」が発生してしまいます。このため同氏の関与を示す個所には伏せ字を使うなど、圭介はその対応に苦心しました。
①『泰西本草名疏』
伊藤圭介編 シーボルト書き入れ草稿本 1冊 <WA22-4>
②『泰西本草名疏』
伊藤圭介編 シーボルトの名を伏した初印本(稚膽八郎本)文政12(1829)刊 3冊のうち上巻 <特7-410>
③『泰西本草名疏』
伊藤圭介編 シーボルトの名を伏した初印本(稚膽八郎本)文政12(1829)刊 3冊のうち上巻 <121-139イ>
④『泰西本草名疏』
伊藤圭介編 「稚膽八郎」名を消した第一後修本(来舶西医本)修正年不明(東京国立博物館蔵)
⑤『泰西本草名疏』
伊藤圭介編 シーボルトの名を出した第二後修本(西医椎氏本)文久3(1863)刷 3冊のうち上巻 <特1-99>
①これは冒頭部分で、筆記した欧文と片仮名「アサヒカヱデ」はシーボルトの自筆書き入れです。下方の㋛印(↑)はシーボルトの見解を示す記号ですが、草稿を書き上げた後にシーボルト事件が発生したので、次の資料でわかるように㋛を○印に変えて刊行しました。
泰西本草名疏
②右頁はツュンベリーの肖像画、左頁は本文冒頭で、舜民は圭介の名、戴堯は字です。シーボルトの見解に従って追加が行われましたが、シーボルト事件が起きたため、草稿の㋛を○印に変えています(↑)。
泰西本草名疏
③この個所は「凡例」で、3行目下方に「稚膽八郎」(↑)、終りから3行目上方に「稚氏」(↓)、上欄に「稚膽八郎ハ伊豆ノ産、今死スト云」とあります。シーボルトに対して「稚膽八郎」の偽名を用い、故人だと念を入れたのです。次の2本と比較してください。
泰西本草名疏 2巻付録2巻 上下合冊
④前資料と同じ個所ですが、「稚膽八郎」を「来舶西医」に変え(↑)、上注も除いてあります。伊藤圭介が何年にこの処置をしたかはわかりませんが、安政元(1854)年に日米和親条約などが締結され、風向きが変わった後であろうと思われます。
洋名入草木図
⑤前資料と同じ個所です。安政5(1858)年に日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルト追放令も取り消されたので、3行目の「来舶西医」をさらに「西医椎氏(シーボルト)」(↑)に直し、終りから3行目の「稚氏」の禾偏の「ノ」を除いて「椎氏」にしたものです(↑)。「稚膽(わかい)」という珍しい姓を用いたのは、深慮遠謀だったようです。本資料は文久3(1863)年の刷りであることが伊藤圭介の『書簡集』<特7-646>からわかります。
泰西本草名疏 2巻付録2巻 [1]
『シーボルト肖像』
岩崎灌園画 文政9(1826)自筆 1軸 <特1-3284>
幕臣岩崎灌園常正は文政9(1826)年3月下旬から4月にかけて数回、江戸滞在中のシーボルトを旅宿に訪ねましたが、これはその際のスケッチです。服装について、左側に詳しく説明しています。
3. 続出する大作
江戸時代の後期から末期にかけて、『本草図譜』『梅園百花画譜』『草花図譜』『草木図説』『栗氏魚譜』『目八譜』などの大作が作成されました。植物の拓本である「印葉図」が用いられるようになったのも、この時期です。
『閑窓録』
耕雲堂灌圃編 文化元(1804)序刊 1冊 <京-386>
右頁上はカシパン類(ウニの仲間)の化石、左頁は二枚貝の化石です。本書は江戸時代唯一の貝化石図譜刊本で、化石112品を掲載しています。著者の実名はわかりませんが、所蔵者は四国・近畿・尾張の人が目立ちますし、序を寄せたのは石類の収集で有名な木内石亭ですから、上方の人物かと推測されます。なお、『貝石画譜』<198-144>は本書の4割を削除し改題した刊本です。
『千蟲譜』
栗本丹洲著 文化8(1811)序 服部雪斎写 3冊のうち上巻 <特7-159>
昆虫やカエル、トカゲなど645品を図説しています。右頁の「ヨロイテフ」はオオムラサキで、上が雌、下が雄です。左頁の上はアカスジシロコケガ、下の「花蛾」がセセリ蝶の類です。いずれも、ほぼ正確な図です。本書は幕医栗本丹洲の著作で、初の虫類図譜として名高いものです。本書の転写本は図の巧拙が著しいのですが、本資料は名手服部雪斎の転写なので、原本の趣を伝えると思われます。
千蟲譜 3巻 [1]
『王余魚図彙』
栗本丹洲画 自筆本 1軸 <ち二-15>
「オトヒメノウチハ」はダルマガレイ類の仔魚です。本資料は栗本丹洲の魚介譜(通称、栗氏魚譜)の1巻で、31品を所収しています。『栗氏魚譜』全体は全二十数巻だったらしいのですが、今は国立国会図書館・東京国立博物館・武田科学振興財団杏雨書屋などに分散しています。したがって全容をつかみにくいのですが、総計では1,000品ほどが描かれ、その半数近くが松平頼恭編『衆鱗図』からの転写です。
『万葉集品物図絵』
鹿持雅澄著 自筆本 3冊のうち冊3 <WA18-23>
万葉集に詠まれている動植物計235品を図示し、各品に該当する和歌1首を万葉仮名で挙げますが、注記はありません。これは原本であり、右頁はワシ、左頁はオシドリです。著者鹿持雅澄は土佐藩士の国学者で、大著『万葉集古義』全141冊を残しました。本書および本書に対応する『万葉集品物解』(文政10(1827)成)はその一部です。
『梅園百花画譜 夏部5-8』
(梅園草木花譜)毛利梅園画 文政8(1825)序 自筆本 4帖のうち夏部-5 <寄別4-3-1-1>
右の「琉球半夏」はリュウキュウハンゲ、左の「鵞黄薔薇」はイザヨイバラで、ともに文政12(1829)年4月の写生です。『梅園百花画譜』は幕臣毛利梅園の著作で、春4・夏8・秋4・冬1の計17帖から成り、約1,300品を描きます。江戸時代の植物図譜のうち写生数がもっとも多いものの一つで、正確さでは一二を争います。毛利梅園の著書『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』も第3章に示しています。
『しきのくさぐき』
野村立栄(初代)著 文政11(1828)成 自筆本 2冊のうち冊2 <特1-2074>
本書は一種の歳時記で、この個所は「枇杷島互市産物考」の大根の部分です。「産物考」は尾張・枇杷島青物市場の農産物約300品の産地や入荷季節、優劣などを記したものです。本書は魚介類・鳥類の同様な記録や、桜の品種解説と図譜、年中行事の部なども含んでいます。著者野村立栄は尾張の医師で、水谷豊文は弟子です。立栄の園芸品覚え書『牽牛花芍薬培養法』<特1-445>も、国立国会図書館で所蔵しています。
『本草図譜 巻5-96』
岩崎灌園著天保元(1830)~弘化元(1844)作成 写本 92冊のうち冊23 <に-25>
本図譜は全92冊(合31冊)、1,900品余の大作で、著者岩崎灌園は幕臣です。予約配布方式で天保元(1830)年に配布を開始、最初の4冊は木版本、残り88冊は手書きで作成して、灌園没後の弘化元(1844)年に配布を終えました。掲出資料は田安家配布本です。右頁の「木香花」(モッコウバラ)は享保年間(1716~35)に、左の「月季花」(コウシンバラ)は平安時代にそれぞれ中国から渡来した種類です。
『本草図譜記』
岩崎灌園著 文政13(1830)~天保12(1841)録 自筆本 1冊 <特1-2972>
前項『本草図譜』の配布覚え書です。この個所は将軍家斉への献上分で、文政13(=天保元年、1830)年から天保12(1841)年までが記されています。2・3行目だけは、聖堂(昌平坂学問所)と幕府医学館への献上分です。この後のページに、将軍世子の家慶、大老井伊掃部頭、若年寄堀田正敦、田安家など、30数人分のリストがあります。『本草図譜記』
『本草綱目紀聞』
水谷豊文著 写本 26冊のうち冊2 <W391-21>
彩色図とその右はツチトリモチで、一見キノコのようですが、花の咲く植物です。鳥黐を作るのが名の由来で、おそらく最古の写生です。本書は、水谷豊文が師小野蘭山の『本草綱目啓蒙』を基盤に、自分の図と記録や引用を数多く加えた著作です。全30巻ですが、国立国会図書館の転写本は一部を欠いています。豊文は尾張藩士で、弟子の大窪昌章や伊藤圭介などと嘗百社を作って活動しました。
「大窪昌章印葉図」
大窪昌章作成(『植物図説雑纂』伊藤圭介編 原本 254冊のうち冊233所収)<本別6-9>
この資料は伊藤圭介が残した資料集『植物図説雑纂』に含まれており、嘗百社の一員だった尾張藩士大窪昌章の作成したエビネの印葉図です。印葉図は植物の葉や花に墨を塗って作る一種の拓本で、尾張の博物家がよく用い、昌章はその名手といわれました。この例も、葉脈や花弁の形状がはっきり現われています。
『ハリブキ印葉図』
伊藤圭介作成 拓本 1軸 <特7-707>
ハリブキ(針蕗)はフキの名がつきますが、キク科のフキとは縁遠いウコギ科の低木で、深山の針葉樹林の下に生えています。葉は大きく、鋭い鋸歯(ギザギザ)が目立ちます。文政10(1827)年6月に、伊藤圭介が宇田川榕菴たちと日光で採薬したときに作成した印葉図です。
『秋田蕗印葉図』
伊藤圭介作成 拓本 1軸 <特7-706>
アキタブキはフキの亜種で東北地方以北に自生します。葉の直径が最大1.5m、柄の長さが2mにもなり、傘の代用に使うほど大きいものです。この印葉図の葉は直径約1m、右方の空所の辺が葉身の付け根で、棒状のものが葉の柄です。
秋田蕗印葉図
『桃洞遺筆』
小原桃洞著・小原良直編 草稿本 3冊のうち冊1,2 <W391-N1・N2>
『桃洞遺筆』は、紀伊藩医小原桃洞の稿を没後に孫の八三郎良直が編集したものですが、その草稿本3冊を国立国会図書館が所蔵しています。草稿本には刊本に未所収の項目が計44もあり、①に示した冊1の「苦潮」(いわゆる青潮)もその一つです。上欄に「ヌクベシ、後編ヘ出ス筈也」の注記がありますが、結局刊本には収められませんでした。②は草稿本冊2の巻頭部分で、良直の印があります。
『みやびのしをり』
きぎすのや則房著 天保5(1834)刊 1帖 <特1-3144>
もっとも詳しい江戸名所一覧で、花鳥風月150項目を収めた折畳式小冊子です。写真の個所の上段は「椿」や「雲雀」、中段は「萩」や「すすき」、下段には右端の「鸖、本所、小松川、向しま‥‥」のほかに、「紅鶴、寺島白髭社森、千住」、「鸛、上野中堂、不忍の池、浅艸寺、東本願寺、猿江重願寺」などと記されています。
『赭鞭会業品物論定纂』
天保8(1837)成 写本 1冊 <特1-23>
赭鞭会は富山藩主前田利保や幕臣・薬商などの博物家の会で、定期的に集まって動植物を検討し、図を描いて記録していました。この個所は天保8(1837)年11月7日の分で、右は四季園(幕臣佐橋兵三郎)持参のオコゼ類乾品、左は妍芳(幕臣設楽貞丈)が持参したアカエイ乾品のスケッチです。保存液を使う液浸標本が作れなかった当時、魚類は乾して保存しました。
『水畜綱目』
前田利保著 天保12(1841)序 写本 1冊 <特1-2004>
富山藩主前田利保は形態分類の重要性を認識していた一人で、本書では「綱―目―等」の階級を作って形態に基づく魚の分類を試みましたが、未完成に終わっています。この個所は冒頭部、右頁は序の末尾で「弁物舎主人」は利保の号の一つです。左頁は鰻鱺魚が「一綱 無脚」の「一目」に当たると示した個所です。
『目八譜』
武蔵石寿著・服部雪斎ほか画 弘化2(1845)序 原本 15冊のうち冊9 <寄別6-2-1-1>
右頁は紅竹、左頁は牙竹で博物画の名手服部雪斎の印があります。『目八譜』は全15巻、著者は幕臣武蔵石寿、江戸時代最大最高の貝類図譜で1,169品を収載しています。本書の図はすべて雪斎が描いたとされてきましたが、実際は雪斎のほか数名の画家(名は不明)によるもののようです。たとえば、牙竹の左側の図は粗雑で、雪斎ではないということです。
『本草要正』
泉本儀左衛門著 文久2(1862)序 自筆本 8冊のうち巻13 <特1-3426>
テフ(蝶)を「チョオ」、メウガ(茗荷)を「ミョオガ」のように、和名を発音表記とした和漢名辞典です。和名の方言や異名も記しています。園芸植物の花銘を多数挙げるのも特色で、アサガオ130点、フクジュソウ131点、ツバキ236点などを記します。本来13冊ですが、8冊のみ現存します。この個所でも、カヒ(貝)をカイ、葡萄貝をブドオガイとするなど、上述の発音表記が見られます。著者は江戸の人と思われます。
『草木図説前編』
飯沼慾斎著 安政3(1856)~文久2(1862)刊 20冊のうち冊8 <特7-165>
本書は初めてリンネ式分類――オシベの数・メシベの花柱の数で分類――を採用した図説で、約1,200品を収録しています。ユキノシタは第10綱2目(おしべ10本、花柱2本)の部に置かれています。右頁は解説、左頁は全形図(無彩)と花の拡大図(手彩)です。花やオシベ・メシベなどの拡大図を掲載するのは、従来の図譜に見られない特徴です。
『草花図譜』(草花譜)
飯室庄左衛門著 自筆(『植物図説雑纂』冊115・冊208所収)<本別6-9>
幕臣飯室庄左衛門の図説『草花図譜』は著者の没後に四散しましたが、『植物図説雑纂』など国立国会図書館所蔵の伊藤圭介編纂資料集に含まれる分と個別の冊子の分と併せると1,850項目以上になり、江戸時代最大の植物図説の一つとわかりました。①は図部の例で、右が「千弁瞿麦」、左が「鵞毛石竹」で、ともにナデシコ類の変異品です。朱字「草花図フ」は伊藤圭介筆です。②は解説部の例で、「桔梗」の項に含まれる「紋キキヤウ」と「黄花桔梗」の個所です。前者では2月に宿根から芽が出て、6月に開花し、9月に実を生じるまでを詳細に記述しています。葉や花の特徴も細かく述べています。
4. 鳥好きの滝沢馬琴
馬琴は生まれつき鳥が好きで、少年の頃から小鳥などを自分で捕らえたりしていたようです。次に示す『禽鏡』には、珍鳥を松前老侯から貰ったり、飼育しにくい鳥を8年のあいだも飼い続けたりしたとの記事が見られます。
『禽鏡』
滝沢馬琴編 天保5(1834)序 原本 6軸のうち巻1(財団法人東洋文庫蔵)
馬琴は、養子の画家渥美赫洲に描かせ、自ら注記を加えて『禽鏡』を作成しました。この個所は巻1の冒頭部で、「著作堂」は馬琴の号で、序は天保5(1834)年10月8日付です。続く「慈悲心鳥」図は、ホトトギスに近縁なジュウイチです。全6軸で311図、約200品を収載します。転写図が中心ですが、一般には目にしにくい大名所蔵図の写しも少なくありません。
禽鏡
『禽鏡』
滝沢馬琴編 天保5(1834)序 原本 6軸のうち巻4(財団法人東洋文庫蔵)
「吐綬鷄異品」はベニジュケイ(紅綬雞)、キジ科の一種で、中国四川省やチベットに生息します。これは、文政9(1826)年に清船が持ち渡った個体ですが、弘化元(1844)年にも渡来しています。現在では激減した種類の一つです。
禽鏡
『飼籠鳥』
佐藤成裕著 文化5(1808)序 天保5(1834)写 滝沢馬琴旧蔵 10冊のうち巻20 <京乙-344>
水戸藩医佐藤成裕の著した全20巻の鳥類書(図はありません)で、内外の鳥類416品を取り上げ、文化5(1808)年の自序があります。その一写本を滝沢馬琴が転写させたのが本資料で、示した個所はその末尾です。朱筆は転写の次第を述べ、左端には墨筆で「甲午(天保5年=1834)春三月二十一日令謄写畢著作堂主人」と転写終了の日付を記します。この個所は、ともに馬琴自筆です。
5.伊藤圭介編著の資料集
伊藤圭介は江戸時代の博物誌資料を大量に収集して、『植物図説雑纂』(<本別6-9>254冊)や『錦窠植物図説』(<奇別11-13>11冊)、『錦窠禽譜』(<寄別11-10>23冊)などの大資料集を残しました。それには、尾張や江戸の博物家の資料・尾張とその近辺の出版物、圭介自身の草稿・覚え書などが数多く含まれます。次に、その数例を挙げます。「錦窠」は圭介の号です。
「人参培養説」
伊藤圭介録(『植物図説雑纂』伊藤圭介編 原本 254冊のうち冊35所収)<本別6-9>
この個所は尾張の医師・博物家伊藤圭介の最初の論述「人参培養説」の前書きと、本文冒頭部です。文政10(1827)年閏6月、伊藤圭介が宇田川榕菴たちと日光で採薬したときの執筆と記されています。
「石斛蘭七五三」
交蕙庵文・関根雲停画(『植物図説雑纂』冊45所収)<本別6-9>
「魚貫金剛」の花銘をもつ石斛(セッコク、ランの一種)の鉢植えが描かれており、その上に「三草」「五草」「七草」の順でセッコクの優品15点の花銘が記されています。左側にある交蕙庵魚貫の文から、同人は『草木錦葉集』を著した水野忠暁の子息で、図示された「魚貫金剛」は交蕙庵の見出した品であり、この刷り物は天保8(1837)年8月の作成とわかります。
「コロツタルラリア」
山本亡羊説・山本渓山画(『植物図説雑纂』冊172所収)<本別6-9>
京都で山本読書室を開いた山本亡羊の説を弟子の西村寒泉・岡安定などが記録し、亡羊の六男渓山(渓愚、章夫)が図を描いて、嘉永7(1854)年正月に刷ったものです。読書室の一枚刷は珍しく、年初の配り物かも知れません。コロツタルラリアは中国南部・台湾に産するキバナハギ(黄花萩)であり、解説に「嘉永ノ初、蘭人持渡ル」とあります。
「尾陽あさがほ名寄鏡」
(『植物図説雑纂』冊180所収)<本別6-9>
橘五園香久美撰・龍鱗亭五嶺校・蕣露園美丸蔵版、文政3(1820)年7月刷。朝顔140品の花銘と、「黄葉乱獅々黄花」「イモハ紅シボリ台咲采」のように形状の詳細を記しています。尾張の朝顔銘鑑はほとんど知られていませんし、また文化末年~文政初年の第一次朝顔ブームでどのような奇品があったかを知る好資料でもあります。
「駝鳥」
一枚刷(『錦窠禽譜』伊藤圭介編 原本 23冊のうち冊続16所収)<寄別11-10>
江戸時代の「駝鳥」は、大半がヒクイドリ(火食鳥)でした。この資料の末尾には「天保七申(1836)六月、阿蘭陀人長崎へ持渡る。蘭語ニテハ、カズワールスト云」、枠外左下に「持主 鳥屋久兵衛」と記されています。小寺玉晁の『見世物雑志』によると、これは天保8年9月、名古屋の清寿院でヒクイドリを見世物にした折に売っていた絵草紙のようです。腰をおろした男が、火をつけた枝を食べさせようとしています。
6. さくよう標本
草木の保存資料としては、腊葉が用いられます。腊葉はいわゆる押葉や押し花の類で、実物を乾燥保存して後日の検討に用いるものです。国立国会図書館は、江戸時代の腊葉資料十数点を所蔵しています。
『礫川官園薬草腊葉』
長塩 某製 文化10(1813)成 1冊 <寄別10-16>
本資料は、主として幕府小石川薬園で採集した草木の腊葉157点と印葉図6点から成ります。印葉図は葉に墨を塗って作る拓本のことです。作成年は文化9~10(1812~13)年で、腊葉も印葉図も日本に現存する資料として古いものに属します。享保時代から文化年間まで植え継がれた草木の腊葉もあります。
『サクラサウ』
渋江長伯製 寛政元(1789)~寛政12(1800)頃 押花 1冊 <特1-3383>
サクラソウは18世紀後半に流行し始め、花弁や色の変わり物が現われました。示した個所の右が花銘「古今集」と「多武峯」、左が「舞之袖」と「井出ノ里」です。上2点は花が6裂(野生品は5裂)、左下は花が極小の奇品です。本書は見返しに寛政年間(1789~1800)の作成とあり、全58品。著者渋江長伯は幕医で、幕府の巣鴨薬園などを管理し、また綿羊を飼育しました。
サクラサウ
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