ひとの横顔から見る─人物紹介
描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―
ここでは、今回の展示会に関係が深い人物をご紹介します。
ここに挙げただけでも、江戸時代の博物誌は大名・武家・医者・植木屋など、さまざまな階層の人々によって担われていたことがお分りいただけることでしょう。
飯沼慾斎
(いいぬまよくさい)(1783~1865)
名は長順、字龍夫(2代)、号慾斎。伊勢の西村家に生まれ、大垣の飯沼家を嗣ぐ。小野蘭山の門下、江戸で宇田川玄真に蘭医学を学び、大垣で医を開業。主著はリンネ式分類に基づいた『草木図説』だが、草部20巻を刊行したにとどまり、木部10巻などは未刊に終わった。
飯室庄左衛門
(いいむろしょうざえもん)(1789~1858?)
幕臣、号楽圃・千草堂、赭鞭会の一員。主著の『草花図譜』(草花譜)は没後に四散したが、かなりの部分が伊藤圭介編『植物図説雑纂』に切り抜かれて収録されており、冊子として残る部分を加えると計1,850品以上に達する大植物図説であることが判明した。ほかに、『虫譜図説』12巻が著名。これは安政3(1856)年の序があり、『本草綱目』の分類に沿った体系的虫類図譜の嚆矢である。
伊藤伊兵衛三之丞・政武
(いとういへいさんのじょう)(?~1719)・(まさたけ)(1667~1739?)
江戸染井の植木屋父子。父三之丞にはツツジを描いた『錦繍枕』(長生花林抄)や『花壇地錦抄』、『草花絵前集』(三之丞画・政武編)、子の政武には『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄附録』などの図説刊本と、図説を集大成した稿本『本草花蒔絵』がある。この父子の活躍により、伊藤伊兵衛家は江戸時代でもっとも著名な植木屋となった。
伊藤圭介
(いとうけいすけ)(1803~1901)
名古屋の博物家・医師、名は舜民、字戴堯。水谷豊文とシーボルトに師事した。リンネの分類を初めて紹介した『泰西本草名疏』を刊行、尾張博物家の会である嘗百社の中軸として博物会(薬品会)を何回も開催した。田中芳男はその時代の門下である。圭介は明治維新後に東京へ転居し、『日本産物志』を出版、また江戸時代資料を収集して『植物図説雑纂』、『錦窠禽譜』など多数の資料集も残した。日本最初の理学博士ともなった。収集した博物誌資料は孫の植物学者伊藤篤太郎に受け継がれ、その主要部分が伊藤文庫(約2,000冊:請求記号<特7- >)として当館に現存する。
稲生若水
(いのうじゃくすい)(1655~1715)
京都の本草家・漢学者、名は宣義、号若水。元禄6(1693)年に加賀藩に仕え、姓を稲と改める。主著『庶物類纂』は加賀藩主前田綱紀の命によるもので、漢籍の動植物記事を集録して全1,000巻とする予定だったが、若水が没したために362巻で中断する。その後、将軍吉宗の命により弟子丹羽正伯が元文3(1738)年に残る638巻を完成させ、延享4(1747)年には増補編54巻を作る。松岡玄達も弟子の一人。関連資料『本草綱目』
岩崎灌園
(いわさきかんえん)(1786~1842)
幕臣の博物家、名は常正。若年寄堀田正敦に認められて、活動の場が拡がり、小石川富坂(現後楽園の北)に薬草植場も貸し与えられた。著作のうち、『武江産物志』や『草木育種』、大著『本草図譜』が名高いが、『古今要覧稿』の分担執筆者の一人でもあった(→屋代弘賢)。関連資料『本草図譜記』
植村政勝
(うえむらまさかつ)(1695~1777)
通称は左平次。徳川吉宗が紀伊藩主だった頃から御庭方として信頼され、その将軍就任に伴って江戸に移った。命で四国・紀州・奥州を含む全国各地に採薬すること30回近くにおよび、また駒場薬園の管理を委ねられた。関連資料『植村政勝薬草御用書留』
大窪昌章
(おおくぼまさあき)(1802~41)
尾張藩士、通称舒三郎、号薜茘菴(2代)・蝸牛菴・蝸亭。志村家に生まれ、大窪光風(初代薜茘菴)の養嗣子となる。水谷豊文に師事し、尾張の博物家の会である嘗百社の有力メンバーの一人であった。印葉図の制作に優れ、多数の印葉図集が現存する。しばしば採薬に赴き、綿密な採薬記を残した。
奥倉魚仙
(おくくらぎょせん)(?~1859)
江戸神田多町の八百屋、名は辰行、通称甲賀屋長右衛門。国学者狩谷棭斎に画才を認められ、魚の絵を描くのに徹した。刊本『水族写真鯛部』のほか、大著『水族四帖』、 『魚仙水族写真』などが残る。
小野蘭山
(おのらんざん)(1729~1810)
名は職博(もとひろ)、通称喜内。京都に生まれ、松岡玄達に学ぶ。25歳にして私塾「衆芳軒」を開き、『本草綱目』、『大和本草』、『秘伝花鏡』などを講述して、名声を得る。寛政11年(1799)、71歳のとき幕府に招かれて江戸に移り、幕府医学館で講義し、また幕府の命で関東各地や遠く紀伊までも採薬に赴いた。その講義に基づく『本草綱目啓蒙』のほか、草木図鑑の『花彙(かい)』など、多数の著作がある。門人は全国にわたって1,000人以上という。
小原桃洞
(おはらとうどう)(1746~1825)
紀伊藩医、名は良貴、通称源三郎、号桃洞。医を吉益東洞に、本草を小野蘭山に学ぶ。紀伊の博物誌の伝統は桃洞に始まる。1,700余品の動植鉱物を集録した『本草余纂』が主著で、ほかに『南紀土産考』『南海介譜』『南海魚譜』などの地方動植物誌がある。後継者である孫の良直(八三郎、蘭峡)が遺稿を編集し、『桃洞遺筆』初編・二編として刊行した。
貝原益軒
(かいばらえきけん)(1630~1714)
名は篤信、字は子誠、号損軒・益軒、福岡藩に仕える。儒学者として名高いが、動植物にも関心が深く、著作には『大和本草』のほか、『花譜』『菜譜』があり、『筑前国続風土記』や多数の紀行書にも博物誌的記述が少なくない。寛文12(1672)年初刻の和刻本『本草綱目』も、その校訂によるといわれる。稲生若水とも交流があった。
神田玄泉
(かんだげんせん)(1670頃~1746)
号は一通子、江戸の城南に住んでいた町医師としかわからないが、初の魚介類図譜である『日東魚譜』の著者として有名。同書は享保4年序本・同16年序本・同21年序本・元文6年序本があり、それぞれ内容がかなり異なるが、当館には享保21年本以外の3本がある。また、玄泉の『本草図翼』(自筆本、孤本)、『本草補苴』『本草大義』『本草或問』も所蔵している。図を重視することと、同一書を何回も改訂するのが特徴。
北尾重政
(きたおしげまさ)(初世、1739~1820)
江戸の書肆須原屋三郎兵衛の長男だが、幼少より絵を好み、絵師となる。展示した『誹諧名知折』の編者谷素外(一陽井)に俳諧を学ぶ。数多くの絵本を描いたなかに、『[蚕養図会]画本宝能縷』、『絵本時津艸』(草木)、『絵本竜之都』(魚介)など、動植物を描いた作品が含まれる。
木村蒹葭堂
(きむらけんかどう)(1736~1802)
大坂で酒造を営む豪商で、文人・博物家。その財で内外の書籍や、海外産貝類などの標本を集めた。交遊も広く、大槻玄沢などの学者や、伊勢長島藩主増山雪斎、平戸藩主松浦静山などの大名とも親しかった。本草方面では小野蘭山に師事して、『奇貝図譜』などの著作を残した。
栗本丹洲
(くりもとたんしゅう)(1756~1834)
江戸の博物家田村藍水の次男で、名は昌臧。幕医栗本家の養子となり、4代瑞見を名乗る。法眼、のち法印(瑞仙院)。若年寄堀田正敦や蘭学者大槻玄沢と親交があったし、江戸城でもしばしば鑑定を頼まれたらしい。とくに動物に詳しく、日本最初の虫譜『千虫譜』が有名だが、魚介譜(通称『栗氏魚譜』)もおそらく江戸時代でもっとも充実した魚類図譜である。
後藤梨春
(ごとうりしゅん)(1697~1771)
名は光生、字梨春、号梧陰菴。田村藍水門下で、江戸の町医、晩年に躋寿館都講(教頭)となる。主著は、和産動植物の網羅を意図したらしい図説の『随観写真』だが、オランダの風土や事物を紹介した『紅毛談』や、享保の採薬使の口述を編集した『採薬使記』もよく知られる。戯作などの文芸作品もあり、幅広い人物だった。
坂本浩然
(さかもとこうねん)(1800~53)
名は直大、号浩然・浩雪・蕈渓。紀伊藩医だが、むしろ画家として著名で、とくに桜花の写生で知られる。『水虎十二品之図』の共著者坂本純沢(復元)は実弟で、摂津高槻藩医。従来、しばしば兄浩然と混同されていた。
佐藤成裕
(さとうせいゆう)(1762~1848)
江戸の生まれで、本草家、通称平三郎、号中陵・温故斎・菁莪堂。薩摩・米沢・会津・備中松山の各藩に招かれて、それぞれ数年滞在し、寛政11(1799)年以後は水戸藩に仕える。著作が多く、当館も二十数点を所蔵するが、『飼籠鳥』、『薩州産物録』や随筆の『中陵漫録』がよく知られている。
渋江長伯
(しぶえちょうはく)(1760~1830)
幕医、名は虬、号西園・確亭。幕府の薬園管理や、綿羊の飼育などの物産事業、蝦夷地の探索に関与した。ショメール『日用百科事典』の購入を幕府に進言し、訳書『厚生新編』作成のきっかけを作ったのも長伯である。多数の腊葉標本を残したが、当館はその一つサクラソウの腊葉帳を所蔵している。
シーボルト、P.F.
(1796~1866)
南ドイツ出身。文政6(1823)年に長崎蘭館付医師として来日。同9年春に蘭館長に随行して江戸に向かい、尾張で水谷豊文や伊藤圭介、江戸では宇田川榕菴や栗本丹洲、岩崎灌園たちと知り合う。また、その往還で多数の動植物を入手する。伊藤圭介はこの縁で翌10年秋から11年春にかけて長崎でシーボルトに師事し、また彼の研究を助けるにいたる。しかし、11年秋にいわゆるシーボルト事件が生じ、翌12年に日本から追放された。主著は『日本(Nippon)』『日本動物誌(Fauna Japonica)』『日本植物誌(Flora Japonica)』。日本の開国後、追放令が取り消され、安政6(1859)年~文久2(1862)年に再び来日したが、このときは生物学的な業績を残さなかった。
白井光太郎
(しらいみつたろう)(1863~1932)
植物病理学者・樹木学者・本草学者、東京帝国大学農科大学教授。学生時代から本草・博物誌に関心を抱き、その歴史を日本で初めて本格的に研究した。明治24(1891)年出版の『日本博物学年表』は、この分野の最初の年表で、以後2回改訂増補された。収集した膨大な資料の大半(約6,000冊)は没後当館に入り、白井文庫(請求記号<特1- >)として当館博物誌資料の根幹となっている。
関根雲停
(せきねうんてい)(1804~77)
江戸の生まれで、服部雪斎と並ぶ博物画家として名声をはせ、赭鞭会にも加わった。『草木奇品家雅見』や『草木錦葉集』、一連のオモトの一枚刷などの草木画が有名だが、本領はむしろ動物画であり、生き生きとしたスケッチを数多く残し、「静」の雪斎・「動」の雲停といわれる。
曽占春
(そうせんしゅん)(1758~1834)
名は槃、号占春・永年、田村藍水の門下。寛政4(1792)年、薩摩侯島津重豪に仕え、その命で『成形図説』を編集する。主著は『本草綱目纂疏』『橘黄閑記』『国史草木昆虫攷』など。重豪の事跡を集録した『仰望節録』は、博物誌資料としても有用である。
滝沢馬琴
(たきざわばきん)(1767~1848)
江戸の人、名は解。『南総里見八犬伝』などの読本作家として有名だが、幼少の頃から動植物に関心を寄せ、とくに鳥が好きで、飼育技術も高かった。馬琴が編集した『禽鏡』は、交流のあった大名や幕臣の資料なども含み、有益な江戸博物誌資料である。随筆にも、動植物に関する記事が少なくない。
谷文晁
(たにぶんちょう)(1763~1840)
江戸の画家、田安家に仕え、寛政4(1792)年には松平定信の近習となった。文化文政期には、江戸画壇の中心であった。小野蘭山に師事したのは何時頃からか不明であるが、文晁の描いた蘭山最晩年の肖像画は、いま当館が所蔵している。
田村藍水
(たむららんすい)(1718~76)
名は登、通称元雄、号藍水、「坂上登」の名もよく用いた。江戸における博物誌の流れは、この藍水に始まる。弟子平賀源内の発案を入れ、日本初の薬品会を宝暦7(1757)年に江戸湯島で開催した。町医であったが、朝鮮人参の栽培などで幕府に認められ、宝暦13年に幕府に仕える。長男は善之(西湖)、次男は栗本丹洲で、ともに幕医・博物家。
徳川吉宗
(とくがわよしむね)(1684~1751)
薬品や物産の自給を目的とした諸策が、全国的に動植物への関心を高め、また多くの藩がそれぞれの特産物を育てる道を開いた。蘭館に命じて洋馬を多数取り寄せ、馬術に優れたオランダ人を招いたりした。乳牛を輸入したのも吉宗であった。吉宗のもとで町奉行を長く務めた大岡越前守忠相も物産政策に関係しており、初期には採薬使の派遣も業務のうちだったようだし、サツマイモの栽培で名高い青木昆陽の推薦、神田玄泉の『日東魚譜』の上覧なども越前守を通して行われている。
戸田旭山
(とだきょくざん)(1696~1769)
大坂の医師、名は斎、号旭山・百卉園。宝暦10(1760)年に関西で初めての薬品会を開催、しかも同年のうちにその出品目録『文会録』を絵入りで出版した。この旭山薬品会は、物産会・闘薬会などと名を変えながら、明和元(1764)年まで開かれた。
丹羽正伯
(にわせいはく)(1691~1756)
名は正機・貞機。松坂の医師で、稲生若水の弟子。徳川吉宗の将軍就任から間もなく江戸に出て幕府の採薬使に加わり、やがて下総国小金野滝野台薬園の管理、朝鮮薬材調査、享保元文全国産物調査など、吉宗の薬種政策の中核として活躍する。一方、師若水の遺著『庶物類纂』の続修・増補も行った(→稲生若水)。
野村立栄
(のむらりゅうえい)(初代、1751~1828)
立栄は通称、名は劉瑛、号三扇堂・健翁。長崎で蘭学を学び、名古屋で蘭方医を開業、のち尾張藩医。門下に水谷豊文がいる。関心の広い人物で、展示した『しきのくさぐき』には食用動植物の種類や値段の記録、花暦や桜を詠んだ和歌の集録なども含まれるし、覚え書『牽牛花芍薬培養法』には当時の尾張園芸界の記録が残る。
服部雪斎
(はっとりせっさい)(1807~?)
関根雲停とともに幕末期の博物画家として著名だが、その経歴はよくわからない。幕末期には『目八譜』、『本草綱目啓蒙図譜』、『朝顔三十六花撰』、『華鳥譜』などの図を描く。明治維新後は博物局の画家となり、同局編『動物図』や伊藤圭介編『日本産物志』などに優れた図を残したが、明治21(1888)年以降の消息は伝わらない。
堀田正敦
(ほったまさあつ)(1755~1832)
仙台藩主伊達宗村の末子で、近江国堅田藩主堀田家を嗣ぎ、のち下野国佐野に転封。幕府の若年寄を42年間もつとめ、医学関係の行政や、蝦夷地の探検、『寛政重修諸家譜』の編集に関わった。栗本丹洲・大槻玄沢・岩崎灌園などにさまざまな便宜をはかり、小野蘭山の江戸招聘にも関与した。自身も博物家で、通称『堀田禽譜』(図譜)のほか、『観文禽譜』『観文獣譜』『観文介譜』などの著作があり、とくに2点の禽譜は江戸時代でもっとも優れた鳥類書と高く評価されている。
前田利保
(まえだとしやす)(1800~59)
富山藩主、号は万香亭・弁物舎など。幕末期の博物大名の一人で、福岡藩主黒田斉清や、幕医栗本丹洲などと書簡を回して動植物についての質疑を行い、また幕臣武蔵石寿や飯室庄左衛門らとともに博物家の集会「赭鞭会」を作った。『本草通串』『本草通串証図』『万香園裡花壇綱目』などをはじめ、著作はおびただしい数に達する。
牧野貞幹
(まきのさだもと)(1787~1828)
常陸笠間藩主。藩政改革に努めるかたわら、自ら絵筆を取り、動植物を描いたことで知られる。当館には、『鳥類写生図』『草花写生』『花木写生』『写生遺編』などが残る。
松岡玄達
(まつおかげんたつ)(1668~1746)
京都の人、通称恕庵、字成章、号怡顔斎・埴鈴翁・苟完居。稲生若水に師事して本草を学ぶが、博物誌的傾向が強く、薬用や食用にとらわれない。『用薬須知』と『食療正要』が本草書の代表作。ほかに、『桜品』や『怡顔斎介品』のように特定品類を対象とし、各品の図と説明を一組とする専書を数多く執筆した。門下に戸田旭山や小野蘭山がいる。
松平定朝
(まつだいらさだとも)(1773~1856)
幕臣で、京都町奉行を長く勤めた。通称左金吾、号菖翁。父の始めた花菖蒲の改良を受け継ぎ、数百の新品種を育てる。主著は『花菖培養録』(初題、花鏡)と『百花培養集』(初題、百花培養考)。いずれも毎年改訂しているのが特徴。当館は両者の自筆本を所蔵している。
松平頼恭
(まつだいらよりたか)(1711~71)
高松藩主で、製塩・製糖などの殖産興業に尽力した同藩中興の英主。熊本藩主細川重賢と並ぶ初期の博物大名の一人でもあり、『衆鱗図』『衆禽画譜』『衆芳画譜』『写生画帖』など、美麗で内容も豊かな図譜を画家に描かせた。平賀源内を登用したことでも知られる。
水谷豊文
(みずたにとよぶみ)(1779~1833)
通称助六、号鉤致堂。尾張藩士で博物家、同藩薬園の管理にも当たる。本草を小野蘭山などに、蘭学を野村立栄(初代)に学び、伊藤圭介や大窪昌章など嘗百社の人々を育て、シーボルトとも交流した。尾張の博物家が蘭学色が強く、また採集を重視したのは、豊文の影響らしい。師立栄と同じく、園芸にも関心を寄せ、朝顔などに関する自筆資料が当館に残る。
水野忠暁
(みずのただとし)(1767~1834)
幕臣。幼少から草木の栽培に熱中し、やがて植木屋が教えを乞うほどの腕前になった。とくに斑入の草木に詳しく、主著『草木錦葉集』はその集大成である。この大著も含め、博物画の名手、関根雲停に描かせた著作が多い。「水のげんちうきやう」と署名することが多いが、これは「水野・源・忠暁」の棒読みらしい。名を「忠敬」と記す文献が多いが、『寛政重修諸家譜』を含めてその名は見えず、誤伝と思われる。
武蔵石寿
(むさしせきじゅ)(1766~1860)
幕臣、名は吉恵、通称孫左衛門、号石寿・翫珂亭。甲府勤番を長く勤めた後、江戸へ戻り、富山藩主前田利保などの加わる赭鞭会の一員として活動。主著『目八譜』は、江戸時代最大最高の貝類図譜であり、貝類の現和名のなかには『目八譜』に由来する名が少なからず存在する。
毛利梅園
(もうりばいえん)(1798~1851)
幕臣で、御書院番。名は元寿、号梅園・写生斎・華魁舎ほか。『梅園百花画譜』(梅園草木花譜)17冊のほか、『梅園菌譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園禽譜』など、実写中心の優れた画譜を数多く残したが、その大半は当館が自筆本を所蔵している。父元苗との共著である年代史『皇代系譜』(内閣文庫蔵)のような著作もある。
屋代弘賢
(やしろひろかた)(1758~1841)
幕臣(幕府右筆)、国学者・考証学者。本姓は源、通称太郎、号輪池。諸書の収集に熱心で、その「不忍文庫」は有名。日本の古典の記述を集録する部門別百科全書『古今要覧稿』を企画・編集、その草木部の編集には岩崎灌園を充てたが、弘賢が没して完成にはいたらなかった。
山本亡羊
(やまもとぼうよう)(1778~1859)
京都の医師、名は世孺、通称永吉。小野蘭山に師事、蘭山が江戸に移った後は京都の本草家・博物家の中心となる。私塾「山本読書室」での弟子は千数百人、読書室物産会をほぼ毎年開く。刊本『百品考』をはじめ、著作多数。子息が多いが、次男山本榕室が跡を嗣ぎ、六男渓愚(渓山、章夫)は明治中期まで活躍した。
李時珍
(りじちん)(1518~93)
明国の市医、字は東璧、湖北省の医家出身。『本草綱目』の序例によれば、嘉靖31年(1552)に同書の執筆を始め、万暦6(1578)年に一応完稿したというが、さらに補訂を重ねて同18(1590)年には現在の形にまとまったようである。しかし、その3年後に時珍は没したらしく、出版は万暦24(1596)年、日本の慶長元年とされる。林 羅山が長崎で入手し家康に献上した慶長12(1607)年が『本草綱目』の初渡来と従来言われてきたが、羅山自身は慶長9(1604)年までに実見していたこと、したがって同年以前に到来していたことが、明らかにされている。
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