第二章 独自の園芸の展開
描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―
日本の園芸は江戸時代に独自の展開をとげました。それも、他の国々では見向きもされなかった野草が次々に園芸品化されるとともに、斑入の草木や変化朝顔が流行するなど、世界にも例のない方向に発展しました。一方で、異国の草木が次々に渡来し、江戸時代の園芸は隆盛をきわめます。
1. 流行の変遷
江戸時代前半の園芸はツバキ・サクラ・ウメ・ツツジ・カエデなどの樹木が中心で、草類はキクくらいでした。時代が下って18世紀中頃からは、草類が主役になり、オモト・アサガオ・マツバラン・ハナショウブ・フクジュソウなどが登場します。
ツバキ 『草木写生春秋之巻』
狩野重賢画 明暦3(1657)~元禄12(1699)写本 4軸のうち春上 <寄別10-39>
二代将軍徳川秀忠がツバキを好んだのが、江戸時代に園芸が盛んになるきっかけのひとつだったといわれています。17世紀前半にツバキの品種は100を超え、それに呼応して数々のツバキを描いた著作が現われました。この資料には48品が描かれており、ここに示したのはその一部です。「酉ノ三月六日写生終」とありますが、これは明暦3(1657)年か寛文9(1669)年のことでしょう。ツバキやサクラ、ウメ、カエデは人気を博し、幕末まで愛好され続けました。
アサガオ 『草木写生春秋之巻』
狩野重賢画 明暦3(1657)~元禄12(1699)写本 4軸のうち秋下 <寄別10-39>
アサガオの原種は淡い青色の花をつけますが、突然変異の結果、17世紀の初め頃にまず白花が現われ、ついで赤花が生まれました。ここに示したのはもっとも古いと思われる赤花の図で、元禄5(1692)年に描かれたものです。
キク 『画菊』
潤甫原画 元禄4(1691)刊 1冊 <WB1-16>
日本のキクを描いた図譜の嚆矢ともいえる作品で、序と跋(後書き)によれば、永正16(1519)年に描かれた100品の図と花銘に、新たに七言絶句の詩を添えて元禄4(1691)年に刊行されたものです。ここには、右から順に花銘「北絹」「輪法」「朽葉実盛」「信濃紅」が描かれています。著者の潤甫は、京都にある建仁寺の282世となった僧侶です。この資料は全品が手彩されていますが、このような全彩色本は他に1本が知られるだけです。
カラタチバナ 『橘品類考前編』
木村俊篤編 寛政9(1797)刊 1冊 <特1-1933>
寛政7(1795)年頃から斑入りや葉型の変化したカラタチバナが大流行しました。右の「鳳凰尾」は通常よりずいぶん葉が細く、左の「矮鷄葉」は添え書きに「カタチ至テ小サシ」とあるように、矮小になっています。変異品のなかには、1鉢で2,300両もの値がついたものもありました。このような流行を反映して、寛政9年にはカラタチバナ関係の刊本が3点も出版されました。本書はそのうちの一つで、翌年には後編も刊行されています。カラタチバナ(唐橘)は、日本にも広く自生しています。
サクラ 『[浴恩春秋両園]桜花譜』
松平定信編・谷文晁原画 文政5(1822)跋 狩野良信摸写 1軸 <へ二-21>
これは、松平定信が築地霊厳島(現在の東京都中央区、築地市場のあたり)の下屋敷に植えていた124品のサクラを画家の谷文晁に描かせた図譜の転写本です。左下にある「浅黄桜」は、濃い緑色の花びらが特徴的な品種です。この資料のほかにも、国立国会図書館では『浴恩春秋両園梅桃双花譜』<へ二-20>を所蔵しています。
斑入植物 『草木奇品家雅見』
金太編 文政10(1827)刊 3冊のうち地之巻 <特1-951>
これは、次に示す『草木錦葉集』とともに、奇品ばかりを集めた植物図集です。右頁にはナデシコ咲のフクジュソウ(上)と斑入りのイワレンゲ(下)、左頁には葉先の反り返ったヒイラギ(上)と斑入りのイヌマキ(下左)などが描かれています。18世紀後半から斑入りなどの変異が珍重されはじめましたが、本書はそのような奇品約500点を収録している世界にも例のない図譜です。著者の金太は江戸青山の植木屋で、図は関根雲停ほかによるものです。
斑入植物 『草木錦葉集』
水野忠暁編 文政12(1829)刊 7冊のうち巻1 <特1-973>
前項の『草木奇品家雅見』と同じく奇品づくしの図譜ですが、より植物図鑑的性格が濃いのが特徴です。大半の図は関根雲停の筆で、斑入品を中心に奇品約1,000品を掲載しています。この頁にはイチョウ3品のほか、バラやフユザンショウの斑入品が描かれています。著者の水野忠暁は旗本ですが、園芸の腕前にかけては植木屋の面々が師と仰ぐほどでした。次のオモトの図集も忠暁が編集し、雲停が描いたものです。
オモト 『小おもと名寄』
水野忠暁編・関根雲停画 天保3(1832)刊 5帖のうち帖2, 5 <855-21>
オモトは文政年間(1818~29)から流行し、なかでも小万年青と呼ばれる小型品のうち、葉型や斑に変化があるものがもてはやされました。この資料は天保3(1832)年に江戸蔵前の八幡社で開かれた小万年青の展示会に際して刊行された刷り物で、各帖とも15品が描かれています。美しい鉢も見どころのひとつで、当時は鉢も大事な鑑賞の対象でした。この会での同形式の刷り物は、少なくとも計9点が知られています。
セッコク 『長生草』
秋尾亭主人著・画 天保6(1835)跋刊 1冊 <245-159>
セッコク(石斛、長生草)はランの一種で、文政・天保年間(1818~43)に流行しました。しかも、セッコクでは花の変異より葉の変異の方が珍重されました。本書は33の図を所収し、その多くは斑入品です。右頁の「紅雀」は紅い花をつける品種で(野生品は白花)、左頁の「金剛丸」は葉と茎が変わっています。著者の秋尾亭主人は京都の植木屋の樋口という人です。
マツバラン 『松蘭譜 下巻』
玉清堂編・貫河堂画 天保8(1837)刊 1冊 <特1-934>
マツバラン(松葉蘭)は生きた化石といわれる原始的なシダで、枝が細かく分かれてホウキのような姿をしています。その枝ぶりの変化や枝の白化が鑑賞され、オモトと同じく文政年間(1818~29)以降に流行しました。本書はもっとも優れたマツバランの色刷画集で、90品を取り上げています。右頁の「高柱斑」は、形態は野生型に似ていますが、枝の一部が白化しています。一方、左頁の「駿河柳」はシダレ柳のような姿の品です。黄色い粒は胞子嚢。
ニシキラン 『にしきかゞみ』
著者未詳 天保9(1838)頃刊 1冊 <特1-2507>
錦蘭(ミヤマウズラ)は天保9(1838)年から翌年にかけて流行しました。ランの仲間ですが、花ではなく葉の形状変化が鑑賞の対象でした。本書は34品を図示し、それぞれ図の右上の印に変異の種類、鉢に花銘、左下に出品者の号・屋号が記されています。左下に押された朱印は、その品種の評価です。右頁にある花銘「松之雪」は「無類」と評され、左頁の花銘「錦重」は「絶品」との印があります。
スカシユリ 『透百合培養法』
花菱逸人著 弘化4(1847)成 写本 1冊 <特7-153>
ユリは古くから愛好されました。尾張在住だった著者によると、スカシユリ(透百合)は当時とくに同地で人気があったようです。尾張では江戸・大坂を引き離して品数が多かったらしく、本書には68もの花銘を挙げています。国立国会図書館には同じ標題の資料<特1-60>がもうひとつありますが、図と花銘の数がこれと異なります。
カノコユリ 『百合譜』
坂本浩然著 自筆本 1冊 <WB9-1>
ユリ類30品が描かれており、それぞれ花名と花の図、鱗茎の図と注記を記してあります。著者の坂本浩然は紀伊藩の藩医ですが、画家としても名が通っています。国立国会図書館では、浩然の筆による『菌譜』『菌譜二集』『躑躅譜』『牡丹花譜』『竹譜真写』『琉球草花図説』『琉球草木写生』などの同人自筆本も所蔵しています(菌はキノコ)。
フクジュソウ 『七福神草』
群芳園弥三郎ほか画 嘉永元(1848)成 写本 1冊 <特1-565>
フクジュソウ(福寿草)は、江戸時代の初めから正月の花として登場します。本資料が作られた嘉永元(1848)年頃から変異品が増えたようで、幕末の『本草要正』(1862序)には131もの品種が記録されています。ここには、七福神に見立てた7品のうち、「弁財天」(右)と「福禄寿」(左)を示しています。著者である群芳園弥三郎・栽花園長太郎・帆分亭六三郎の三名は、いずれも江戸で名声を博した植木屋です。
オキナグサ 『八翁草』
不老亭編 嘉永2(1849)刊 1帖 <特1-3141>
オキナグサ(翁草)は風変わりな花が鑑賞の対象でした。本書は8品の色刷画で、花銘は右から、「築厳翁」「釣渓翁」「卜年翁」「感麟翁」。花銘の右下には花の特徴などが記されています。この4品のように、花色と花弁の変異がもてはやされました。和名の「オキナグサ」は、実に生じる白い毛を老翁の白髪に見立てたことに由来します。
ハナショウブ 『花菖培養録』
松平定朝著 嘉永6(1853)序 自筆本 1冊 <特1-2012>
ハナショウブ(花菖蒲)は古くから日本人に愛されてきました。江戸時代には幕臣の松平定朝が父の後を継いで改良を進め、品種を飛躍的に増加させました。本書は弘化3(1846)年に『花鏡』という題で記されたのが最初で、以後改訂を重ねること5回、そのつど図も入れ替えられました。本資料は最終改訂版の自筆本で、21品を収録します。右頁は花銘「管弦乃声」「紅粉青娥」、左頁は同じく「竜田川」「月下乃波」。
アサガオ 『朝顔三十六花撰』
万花園主人撰・服部雪斎画 嘉永7(1854)刊 1冊 <W166-N26>
アサガオは文化末年から文政初年と弘化末年から文久初年の2回のブームを呼びました。この資料は弘化末年にはじまる第二次ブームの頃のもので、当時主役だった奇妙な形態の花や葉をもつ「変化朝顔」の数々が描かれています。なかにはアサガオとは思えない姿をした花もあります。当時は黄色い花をつけるアサガオもありましたが、現在では失われてしまっています。著者の「万花園」は幕臣の横山正名の号で、図は服部雪斎によるものです。もっとも優れた朝顔図譜といわれ、書名のとおり、36品を所収しています。
2. 新顔の花草花木
いま私たちに身近なヒマワリ・オシロイバナ・カーネーション・マツバボタン・パンジー・ブッソウゲ(ハイビスカス)・キョウチクトウなどは江戸時代に渡来しました。トマトも江戸時代初期、鑑賞用に持ち込まれたものです。
ハイビスカス 『梅園百花画譜 夏部1-4』(梅園草木花譜)
毛利梅園画 文政8(1825)序 自筆本 4帖のうち夏部1 <寄別4-2-3-2>
ハイビスカスは、慶長14(1609)年に仏桑花の名で琉球から渡来したのを最初として、何度も日本に持ち込まれました。しかし日本で冬を越せるようになったのは、18世紀後半に唐室などの保温設備が考案されて以降のことです。これは文政5(1822)年に写生されたものです。原産地は中国南部からインドシナ半島といわれていますが、はっきりしていません。
トマト 『東莠南畝讖』
毘留舎那谷著 享保16(1731)序 写本 3冊のうち冊巻2 <特1-217>
右の「六月柿・珊瑚珠茄子」がトマト。原産地は南米アンデス山脈地帯。日本では狩野探幽の寛文8(1668)年写生が最古で、17世紀中頃に渡来したと思われます。「唐柿」「六月柿」「珊瑚珠茄子」の名で広まりましたが、幕末までは食用ではなく、鑑賞植物でした。これは18世紀前半の写生。左はヤマトラノオとシダ類のイワオモダカ。朱筆は、小野蘭山が後に書き入れたものです。
ヒマワリ 『草花絵前集』
伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編 元禄12(1699)刊 3冊のうち上巻 <本別14-2>
これはヒマワリで、17世紀の中頃に渡来したようです。図は『訓蒙図彙 』(1666刊)が最初で、これはそれに次ぐものです。当時ヒマワリは「丈菊」「日向葵」などと呼ばれましたが、今のような人気はなく、大きすぎて下品な花だと評価されていたようです。本書は総合的な園芸植物図説の最初で、120品を取り上げています。著者は江戸染井村の植木屋で、父三之丞の絵を息子の政武が編集したものです。
オシロイバナ 『草花絵前集』
伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編 元禄12(1699)刊 3冊のうち下巻 <本別14-2>
左の「おしろい」(白粉)がオシロイバナで、紅紫色と記されています。原産地は南米、17世紀後半渡来と思われ、渡来から間もない頃の写生です。貝原益軒の『花譜』(1698刊)によると黄花も入っていました。右の「しうめいきく」はシュウメイギク(秋明菊)で、室町時代に原産地中国から渡ってきたようです。
トケイソウ 『梅園百花画譜 夏部1-4』(梅園草木花譜)
毛利梅園画 文政8(1825)序 自筆本 4帖のうち夏部3 <寄別4-2-3-2>
トケイソウは、花が時計に似ているので当時から「時計草」の名がありました。原産地はブラジルで、日本への渡来は、秀吉時代に持ち込まれたとも、享保5(1720)年が初渡来だともいわれています。1800年頃には日本で冬を越せるようになりました。その風変わりな花は人々の興味をそそり、多くの図が残されました。これは文政9(1826)年の写生です。
オジギソウ 『指侫草ノ記』
山本読書室編 天保13(1842)成 写本 1冊 <特1-436>
天保13(1842)年春、京都の山本亡羊の元に長崎からオジギソウの種子が届きました。その種子から育った草の葉に触れると、葉が閉じて垂れるので人々は驚き、多くの詩や文を山本読書室に寄せました。それらを編集したのが本書です。当時は中国の伝説にちなんで指侫草・屈佚草、あるいは蘭名コロイヂイル・ルメイニイトと呼ばれました。南米の原産で、天保11年頃にオランダ船が持ち込んだのが最初のようです。
マツバボタン 『新渡花葉図譜』
渡辺又日菴著 大正3(1914)写 2冊のうち乾巻 <特7-147>
これはマツバボタンの赤花。原産地は南米で、万延元(1860)年に遣米使節が種子を持ち帰ったのが初渡来です。同時にキンギョソウ、ペチュニア、スイートピー、ジギタリスなどの種子も入りました。著者は尾張藩家老で、本書は幕末期渡来植物を中心に130品を描く好資料です。なお、これは伊藤圭介の五女小春(伊藤篤太郎の母)による転写本。
パンジー 『新渡花葉図譜』
渡辺又日菴著 大正3(1914)写 2冊のうち坤巻 <特7-147>
「小蝶花」はパンジーで、慶応2(1866)年冬、江戸から尾張に来た旨の注記があります。北欧原産で、伊藤圭介編著『植物図説雑纂』によると、文久2(1862)年冬にイギリスから渡来したものです。同年冬に帰国した遣欧使節は、コスモスやクロタネソウなどの種子を持ち帰っていますが、それとは別ルートの可能性が高いようです。
ヒヤシンス 『ヒヤシント図』
服部雪斎・関根雲停画 自筆本 1軸 <特7-703>
これは、江戸末期~明治初期に活躍した博物画家の名手二人、服部雪斎と関根雲停の競作で、左の紅花が雪斎(印、文修)の作、右の黄花が雲停(印、観斎)の作です。「ヒヤシント」は今で言うヒヤシンスで、幕末に渡来しました。原産地は小アジアです。この資料は、伊藤圭介が幕医久志本左京から贈られたものです。
ヤシ 『椰子萌芽図』
関根雲停画 自筆本 1軸 <特7-721>
文字どおり、ヤシの実が発芽して葉が出はじめたときのスケッチです。幕末期か明治初年の作品と思われます。「雲停写」の字の下は「観斎」の朱印です。
アダン 『鳳梨写真』
写本 1軸 <寄別11-54>
「鳳梨」(パイナップル)とありますが、パイナップルではなく、アダンです。アジア・太平洋の熱帯・亜熱帯に広く分布し、日本では琉球(沖縄)に自生します。賛語(画の余白部分に書き添えた詩や文章のこと。)によると、これは寛政6(1794)年に薩摩藩医の曽占春(曽槃)が鹿児島に赴いていた折に、琉球の学生から贈られた絵の転写図ということですが、本当のところはウエインマン著『花譜』からの転写図です。司馬江漢の筆と伝えられていますが、これは誤りといわれています。
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