ときの流れから見る─年表
描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌―
今回の展示資料を中心とした博物誌年表です。
江戸時代のはじめに名著『本草綱目』が伝来してのち、日本の博物誌は大きな発展をとげました。ここに示した関連記録は、そのうちのごく一部です。江戸時代には毎年のように博物誌関係の作品が著されたほか、次々に新しい動植物が渡来しました。
このような年表をつくることができるのも、たくさんの博物誌資料が現存しているからにほかなりません。
西暦 | 和暦 | 事項 |
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2世紀後半、後漢で『神農本草経』が成立、365品の薬物を記述。 | ||
3~4世紀、『名医別録』が成立。730品以上の薬物を記述。 | ||
500 | この頃、梁の陶弘景が『神農本草経』の諸伝本を校定し、『名医別録』由来の薬物や自注も加えて、『神農本草経集注』(集注本草)を作る。 | |
562 | 欽明23年 | 呉の人、智聡が内外典・薬書など164巻を持って渡来。初めて医書が日本に入る。 |
598 | 推古6年 | 新羅からクジャクが到来、翌年には百済からラクダとロバが来る。珍鳥奇獣渡来の始まり。 |
659 | 斉明5年 | 唐の蘇敬ら、『神農本草経集注』を増補して『新修本草』を作成。その後も増補を繰り返し、宋代に『開宝本草』『嘉祐本草』『大観本草』『政和本草』などが作られる。 |
918 | 延喜18年 | この頃、深根輔仁が『本草和名』を作成。日本最古の本草書 (漢名と和名の対照) 。 |
1596 | 慶長1年 | 明の李時珍著『本草綱目』の初版(金陵本)刊。先行本草書を編集増補し、博物誌的記述が詳しいのが特色。江戸時代を通して、本書は博物誌の土台となった。 |
1600 | 5年 | 徳川氏が関ケ原の戦に勝ち、覇権を握る。初代将軍家康は医薬に関心が深く、二代将軍秀忠は園芸、とくに椿を好み、ともに少なからぬ影響を与えた。関連資料『草木写生春秋之巻』 |
1604 | 9年 | この年までに『本草綱目』が日本に渡来。慶長12年には家康も入手した。 |
1616 | 元和2年 | 金魚が渡来。文亀2(1502)年 伝来説もあり、おそらく何回も輸入されたのだろう。 |
1637 | 寛永14年 | 『本草綱目』の最初の和刻本、刊。以後3系統14種の和刻本が出た。 |
1638 | 15年 | 幕府、江戸に北薬園・南薬園を創立。のち前者は廃されるが、後者は小石川に移転して存続。 |
1640 | 17年 | 幕府、京都に鷹峯薬園を設ける。明暦3年1657・本年から元禄12(1699)年 にかけて、狩野重賢が『草木写生春秋之巻』を描く。江戸時代初期には多数の園芸植物が渡来したが、その好資料の一つ。 |
1666 | 寛文6年 | 中村惕斎著『訓蒙図彙』刊。最初の百科図鑑で、図も良い。 |
1675 | 延宝3年 | 幕府、無人島 (小笠原諸島) に探険隊を派遣、オオコウモリやタコノキの実などを持ち帰る。 |
1677 | 5年 | 紀伊熊野太地浦で、鯨を網でからめる捕鯨法が考案され、各地に拡まる。関連資料『六鯨之図』 |
1680 | 8年 | 幕府が長崎に薬園を設立、清船蘭船持ち渡りの薬草を受け入れる中継地とする。 |
1681 | 天和1年 | 水野元勝著『花壇綱目』刊、最初の総合園芸書だが、図は無い。 |
1690 | 元禄3年 | 『六々貝合和歌』刊。この頃から貝類の収集が始まる。 |
ケンペルが来日、2年間滞在。『廻国奇観』『日本誌』で日本の動植物を紹介。関連資料『訓蒙図彙』 | ||
1691 | 4年 | 潤甫画『画菊』刊、日本で最初に刊行された園芸植物図譜。 |
1692 | 5年 | 『草木写生春秋之巻』にアサガオ赤花のもっとも古いと思われる図がある。アサガオの原種は淡青色で、17世紀の前半までにまず白花が、ついで赤花が現われた。 |
1695 | 8年 | 江戸染井の植木屋伊藤伊兵衛三之丞著『花壇地錦抄』刊。図は無いが、1,200品以上の園芸品を記述。子息政武が『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄附録』を図入りで続刊する。 |
1697 | 10年 | 人見必大(野必大)著『本朝食鑑』刊。17世紀には、食物の調和で健康を保つ視点から数々の食物本草書が記されたが、その最高峰に位置するとともに、優れた博物誌でもある。 |
1699 | 12年 | 伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』刊、最初の総合的園芸品図譜。17世紀に渡来したオシロイバナ・センニチコウ・チョウセンアサガオ・ヒマワリなどを所収。 |
1709 | 宝永6年 | 貝原益軒著『大和本草』刊、和産動植物中心の本草書。 |
1716 | 享保1年 | 徳川吉宗、8代将軍となる。薬物・物産の輸入を減らす目的で、朝鮮人参や砂糖などの国産化を目指すとともに、和産薬材の開発に取り組む。 |
1717 | 2年 | 『諸禽万益集』成る。初期の鳥類飼育書としてもっとも充実し、猟法にも詳しい。 |
1719 | 4年 | 神田玄泉、『日東魚譜』を作成。最初の魚介図譜で、のち3回改訂。 |
1720 | 5年 | 幕府、本年から各地に採薬使を派遣する。薬材の採取と調査が目的。関連資料『将軍徳川吉宗の物産政策』 |
幕府、江戸に駒場薬園を新設。植村政勝が管理を命ぜられる。 | ||
1721 | 6年 | 幕府、対馬藩に朝鮮薬材調査を指令(関連資料『丹羽正伯物産日記』)。朝鮮人参の試作も本年から始まり、元文1(1736)年頃に成功する。関連資料『人参耕作記』 |
幕府、小石川薬園を大拡張する (現東大小石川植物園) 。 | ||
1728 | 13年 | 清船、幕府の注文により雌雄のインドゾウを持ち渡る。長崎で雌は死ぬが、雄は翌年陸路で江戸に送られ、寛保2(1742)年まで江戸で生存。関連資料『[享保十四年渡来]象之図』 |
1731 | 16年 | 美濃養老の僧侶毘留舎那谷が自著『東莠南畝讖』の序を記す。身近な動植物を描いた画集で、ギフチョウのもっとも古い図などを含む。 |
1735 | 20年 | 青木昆陽、小石川薬園などでサツマイモを試作。西日本の一部ではすでに耕作していたが、関東での普及はこれ以降である。 |
幕府、諸藩に対し、領内に産する全動植物の報告を求める(享保元文産物調査)。関連資料『信濃国諏訪領諏訪郡筑摩郡之内産物絵図帳』 | ||
『草木弄葩抄』刊。サクラソウ・ナデシコ・カキツバタ・オモトなどに多数の変異品が挙げられており、和産草類の園芸品化がすでに進んでいることがわかる。 | ||
1737 | 元文2年 | 清国から『百花鳥図』が渡来、中国産などの鳥類100品の図譜。 |
1738 | 3年 | 『庶物類纂』全1000巻が完成。漢籍の動植物記述の集録で、企画編集した稲生若水が没したため、吉宗が丹羽正伯に続修を命じていた。正伯は延享4(1747)年に増補編54巻も作成。 |
1746 | 延享3年 | 松岡玄達(怡顔斎)没、稲生若水の門下。『怡顔斎桜品』『怡顔斎介品』など、グループ別の図説を数多く著した。弟子小野蘭山は、このとき入門後5年に過ぎなかった。関連資料『小野蘭山寛政七年書簡下書』 |
1748 | 寛延1年 | 田村藍水著『人参耕作記』刊。のち火事で版木が失われ、増補版『朝鮮人参耕作記』を改めて出版した。 |
1753 | 宝暦3年 | 小野蘭山、25歳、京都河原町に私塾「衆芳軒」を開き、『本草綱目』などの講義を始める。 |
後藤梨春、『随観写真』の序を記す。和産動植物の網羅を企てた図譜。 | ||
1757 | 7年 | 田村藍水、江戸湯島で日本最初の薬品会を開く。門下平賀源内の提案に基くという。 |
8年 | 大坂でインコやキンケイ(金鶏)の見世物が大当たり。京都や江戸にも回る。関連資料『奇観名話』 | |
1760 | 10年 | 大坂初の薬品会を戸田旭山が浄安寺で開き、出品目録『文会録』を刊行。 |
1761 | 11年 | 京都初の薬品会を豊田養慶が東山双林寺で開き、出品目録『赭鞭余録』を刊行。 |
1762 | 12年 | 高松藩主松平頼恭、自編『衆鱗手鑑』を将軍家治に献上。魚介類図譜で、この系統の転写図が『栗氏魚譜』や『随観写真』に数多く残る。関連資料『高松藩主松平頼恭の著作』 |
1770 | 明和7年 | 田村藍水、『琉球産物志』を記す。実際は、薩南諸島産720品ほどの植物図説。この頃から南方や蝦夷地を対象とする地方動植物誌が現われはじめる。 |
1773 | 安永2年 | 『[唐鳥秘伝]百千鳥』刊、海外産鳥類65品の飼育法。すでに多くの外来種が飼われ、クジャクやシチメンチョウ、ブンチョウなどを繁殖させていたことがわかる。 |
1774 | 3年 | 杉田玄白ら、『解体新書』を刊行。 |
1775 | 4年 | 『養鼠玉のかけはし』刊。愛玩用鼠の飼育が、明和末年から始まっていた。 |
ツュンベリー来日、翌年まで滞在。『日本植物誌』で、530種の日本産植物を記載。 | ||
1781 | 天明1年 | 谷素外編・北尾重政画『誹諧名知折』刊、俳人のための動植物図鑑。 |
1786 | 6年 | 勝川春章・北尾重政画『画本宝能縷』刊、蚕の飼育を描いた錦絵。この頃、『画本虫撰』など、動植物を描いた色刷木版画の刊行が相次ぐ。 |
1791 | 寛政3年 | 幕医多紀氏の医学教育機関 (躋寿館) を、幕府医学館とする。以後ほぼ毎年、薬品会を開く。 |
1792 | 4年 | 幕府の蝦夷地探査に参加した小林源之助が、『蝦夷草木図』を描く。 |
1797 | 9年 | 『橘品類考』刊。この頃、カラタチバナの斑入奇品が大流行。 |
1799 | 11年 | 小野蘭山、71歳、幕府に招かれて江戸に出、幕府医学館で『本草綱目』などを講述。また、関東各地や甲州・伊豆・紀州伊勢などで採薬(採集)を行う。関連資料『小野蘭山関係資料』 |
1800 | 12年 | 江戸渋谷の名主、亀井協従が『北越物産写真』を作る。北越産動植物の図説。 |
18世紀後半、ヒメダカ(緋目高)が出現。関連資料『梅園魚譜』 | ||
1802 | 享和2年 | 木村蒹葭堂、没。その『奇貝図譜』には、オキナエビス現生種の最古の図がある。関連資料『奇貝図譜』 |
薩摩藩御鳥方比野勘六、『鳥賞案子』を記す。鳥類の飼育書で、広く流布した。 | ||
1803 | 3年 | 小野蘭山の江戸での講義を記録した『本草綱目啓蒙』刊行開始。文化2(1805)年に刊行終了。再版(1811~29?)、3版(1844刊)、(1847刊)もある。 |
1804 | 文化1年 | 『閑窓録』刊、江戸時代唯一の貝化石図鑑。 |
1808 | 5年 | 京都で第1回山本読書室物産会。以後ほぼ毎年開かれ、慶応3(1867)年の第50回に及ぶ。 |
1809 | 6年 | 尾張国熱田で、ツノメドリを捕獲。本州で最南の記録か。関連資料『水谷氏禽譜』 |
1810 | 7年 | 1月27日、江戸で小野蘭山没、享年82。前々日も講義したが、風邪が急に悪化した。関連資料『小野蘭山公勤日記』 |
1811 | 8年 | 栗本丹洲、『千虫譜』の序を記す。虫類図譜の嚆矢で、645品を描く。 |
1815 | 12年 | この頃から文政初年まで、第1次朝顔ブーム。花色や葉型の変異が数多く出現。関連資料『尾陽あさがほ名寄鏡』 |
1821 | 文政4年 | アネハヅルを尾張で捕獲、将軍家斉に献上。関連資料『姉羽鶴之図』 |
蘭船がヒトコブラクダ雌雄を持ち渡るが、幕府は受け取らず、出島の蘭館内で飼われる。 | ||
松平定信が別邸の桜124品を谷文晁に描かせる。濃い緑の「浅黄桜」などもある。関連資料『[浴恩春秋両園]桜花譜』 | ||
1822 | 5年 | 蝦夷地箱館の近くでカンムリツクシガモ雌雄を捕獲。本種は20世紀に絶滅した。関連資料『水禽譜』 |
1823 | 6年 | 1821年持ち渡りのラクダが民間に引き取られ、見世物として全国を回り、大評判となる。 |
シーボルトが来日。6年間も滞在し、長崎の鳴滝塾で多くの蘭学者を育てた。 | ||
1825 | 8年 | 毛利梅園、『梅園百花画譜』の序を記す。草木約1,300品の図説で、嘉永2(1849)年まで描き続けた。ほかに『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』などがある。 |
1826 | 9年 | 蘭館長に随行して、シーボルトが1カ月あまり江戸に滞在。関連資料『シーボルト肖像』 |
1827 | 10年 | 尾張本草家の会である嘗百社の人々が、名古屋で最初の薬品会を伊藤圭介宅で開く。嘗百社員は蘭学色が強く、印葉図の作成に巧みであるなどの共通点が目立つ。関連資料『大窪昌章印葉図』 |
金太編『草木奇品家雅見』刊、斑入など奇品500点を所収。『草木錦葉集』とともに、世界に例が無い奇品植物図譜。斑入草木は、日本で独自に発展したジャンルである。 | ||
本年から翌年まで、伊藤圭介が長崎に滞在し、シーボルトに師事。関連資料『Flora Iaponica (日本植物誌 羅語版)』 | ||
1828 | 11年 | シーボルトの所持品から、日本地図などの禁制品が発見される(シーボルト事件)。 |
1829 | 12年 | 伊藤圭介編『泰西本草名疏』刊。学名・和名を対照、リンネの分類を初紹介。 |
水野忠暁編『草木錦葉集』刊、奇品植物図譜で、1,000品を所収。 | ||
シーボルト、「シーボルト事件」により日本を追放される。 | ||
文政年間以降、オモト(万年青)、セッコク(石斛)、マツバランなどの斑入や、葉型草姿の変化がもてはやされた。 | ||
1830 | 天保1年 | 岩崎灌園、『本草図譜』の配布を開始する。全92冊、植物1,900品の図説。関連資料『本草図譜記』 |
1832 | 3年 | 江戸小石川馬場でアホウドリを捕獲。当時はしばしば各地に飛来していた。関連資料『梅園禽譜』 |
江戸蔵前で「小オモト」(小型オモト)の品評会が開かれ、15品を1組とした水野忠暁編・関根雲停画の一枚刷『小おもと名寄』を、少なくとも9種類刊行した。 | ||
1833 | 4年 | 小原桃洞著・小原良直編『桃洞遺筆 初編』刊。二編は嘉永3(1850)年刊。当館にはその草稿があり、刊本未収稿が44項も含まれる。 |
蘭船がスローロリス・ジャワマメジカ・ハクビシンなどを持ち渡る。関連資料『外国珍禽異鳥図』 | ||
1834 | 5年 | 『みやびのしをり』刊。江戸の花鳥風月案内のうち、もっとも詳しい。ホトトギスに9、クイナ6、ホタル13、ツル8の地名を挙げ、トキも寺島・千住にいると記されている。 |
宇田川榕菴著『植物啓原』刊。初めての近代植物学入門書で、形態・生殖生理を解説。 | ||
栗本丹洲、没。『栗氏魚譜』は江戸時代最大の魚類図譜で、1,000品以上を所収。関連資料『魚譜』 | ||
滝沢馬琴編『禽鏡』成る。馬琴は幼少時から鳥類を好み、飼育も相当の腕前だった。本書は内外の鳥類311図の図譜で、大名の所蔵図などの転写も少なくない。 | ||
1835 | 6年 | 『長生草』刊。ランの一種、セッコクの図譜。 |
1836 | 7年 | 富山藩主前田利保が赭鞭会会則を作成。この会は、利保、幕臣武蔵石寿、同飯室庄左衛門、同佐橋兵三郎、同設楽貞丈、薬商大坂屋四郎兵衛などの博物家の会で、天保11(1840)年までの記録が残る。関連資料『赭鞭会品物論定纂』 |
1837 | 8年 | 『松蘭譜』刊。原始的シダであるマツバラン90品の図譜。 |
1838 | 9年 | 本年より翌年にかけて、錦蘭(ニシキラン)(ミヤマウズラ)が流行。葉の変異が鑑賞の対象。 |
山本亡羊著『百品考 初編』刊。二編は嘉永1(1848)年、三編は同6年刊。 | ||
1842 | 13年 | オジギソウが長崎より京都の山本読書室に送られ、人々を驚かす。 |
1843 | 14年 | 天保末年からイワヒバ(シダの類)やハナショウブが流行し、幕末に及ぶ。 |
1844 | 弘化1年 | 小野蘭山述・梯南洋補正『重修本草綱目啓蒙』刊。『本草綱目啓蒙』の3版(木活字版)で、南洋の増補は有用だが、本文には誤植が少なくない。 |
1845 | 2年 | 武蔵石寿著『目八譜』成る。江戸時代最高の介類図説で、約1,170品を所収。 |
1847 | 4年 | この頃から、第2次朝顔ブーム。一見アサガオとは思えない「変化朝顔」が流行。関連資料『朝顔三十六花撰』 |
小野蘭山述・井口望之訂『重訂本草綱目啓蒙』刊。『本草綱目啓蒙』の4版。 | ||
1848 | 嘉永1年 | この頃から、フクジュソウやオキナグサの変異品が流行。関連資料『七福神草』 |
1849 | 2年 | 井口望之編『本草綱目啓蒙図譜』刊。図は見事だが、山草部のみに終わる。 |
1854 | 安政1年 | 日米和親条約、締結。 |
1856 | 3年 | 飯沼慾斎著『草木図説前編』(草部)、刊行開始。文久2(1862)年に刊行終了。初めてリンネ式分類を採用した図説で、1,200品を収録。 |
1857 | 4年 | 幕府、洋学の研究教育機関として、蕃書調所を開設。のち洋書調所、ついで開成所と改名。 |
1858 | 5年 | 日米修好通商条約、締結。オランダ・ロシア・イギリスなどとも同様の条約を結ぶ。 |
飯室庄左衛門、没?著作に『虫譜図説』『草花図譜』がある。 | ||
1859 | 6年 | 横浜・長崎・箱館を開港、自由貿易が始まり、海外の動植物も続々と流入する。関連資料『新渡花葉図譜』 |
1860 | 万延1年 | ヒョウが渡来、将軍家茂上覧後、江戸で見世物。ただし、「虎」と宣伝したらしい。 |
イギリスの園芸家フォーチュンが来日、江戸染井の植木屋の盛況に驚く。 | ||
遣米使節が、ペチュニア・マツバボタン・スイートピーなどの種子を持ち帰る。関連資料『新渡花葉図譜』 | ||
1861 | 文久1年 | 森立之編・服部雪斎画『華鳥譜』が作られる。 |
伊藤圭介、蕃書調所物産学出仕を命じられ、江戸に出る。この頃から先人の資料を積極的に収集し、のちに『植物図説雑纂』『錦窠禽譜』などの資料集を作成。関連資料『伊藤圭介編著の資料集』 | ||
トラが渡来、江戸で見世物。 | ||
1862 | 2年 | 遣欧使節が、チューリップの球根や、クロタネソウ・コスモス・キンギョソウ・パセリ・カリフラワーなどの種子を持ち帰る。この年、パンジーも伝わる。関連資料『新渡花葉図譜』 |
1863 | 3年 | 江戸で、フタコブラクダとインドゾウの見世物。関連資料『象及駱駝之図』 |
1865 | 慶応1年 | ライオンが渡来、翌年江戸で見世物。 |
1868 | 4年 | 江戸時代が終わる。 |
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