東海道の難所をめぐる
日本の東西を結ぶ大動脈ともいえる東海道は、古代から五畿七道の一つとして要路であった。
慶長6(1601)年、徳川家康が江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅に、公用輸送のための伝馬を課す命令を出した。最終的に設けられた宿駅が全部で53駅だったことから、後に「東海道五十三次」と呼ばれるようになり、浮世絵や文学作品の題材にもなった。東海道を皮切りに、同じく日本橋を起点とする中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道をあわせた五街道など、江戸を中心とする交通網が整備された。
様々な人々の往来によって経済的・文化的に発展した江戸時代の東海道には、複数の難所が存在した。
関所
江戸幕府は各街道の要衝に関所を設置した。関所では、武器弾薬が江戸へ持ち込まれたり、大名の妻子が江戸から逃げたりするのを防いだとされる。このような取締対象は「入鉄砲に出女」と呼ばれ、東海道では新居関所と箱根関所において特に厳重に警戒されていたといわれる。なお、新居関所は当時の建物(江戸末期に建て替え)が主要街道で唯一現存する関所である。
東海道風景図会 2編 [2]
東海道 箱根
峠
『箱根八里』で「天下の嶮」と歌われた箱根峠をはじめとし、由比宿と興津宿の間にある薩埵峠、鞠子宿と岡部宿の間にある宇津ノ谷峠、金谷宿と日坂宿の間にある小夜の中山、坂下宿と土山宿の間にある鈴鹿峠など、多くの峠を越える必要があった。険しい道のりを人々が歩む様子が浮世絵にも描かれている。
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 土山鈴ケ山坂ノ下
川・海
江戸幕府は大河川の架橋を禁じていた。そのため、『箱根馬子唄』で「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と歌われた大井川や、小田原に注ぐ酒匂川などでは、川渡しを生業とする川越人足の肩車や蓮台に乗って川を渡った。
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 嶋田
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道風景図会 2編 [1]
豊橋の吉田大橋や琵琶湖から流出する瀬田川に架かる瀬田の大橋など、橋で渡ることができる区間も一部あった。
渡し船によって移動する区間もあった。舞阪宿と新居宿の間は浜名湖によって隔てられていたため、「今切の渡し」を利用する必要があった。強風による高波が危険だったことから、「舞阪一里、船に乗るも馬鹿乗らぬも馬鹿」といわれた。また、品川宿と川崎宿の間を流れる六郷川(多摩川下流)には「六郷の渡し」、見附宿と浜松宿の間を流れる天竜川には「池田の渡し」があった。
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
東海道 舞坂
東海道 川崎
宮宿と桑名宿の間には伊勢湾を渡る海路「七里の渡し」があった。
東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照
難所を避ける
これらの難所を回避するために、東海道を迂回する者もいた。本坂通は、見附宿・浜松宿から気賀関所を通過して浜名湖の北岸を回り、本坂峠を越えて吉田宿・御油宿に至るルートであり、「舞阪一里、船に乗るも馬鹿乗らぬも馬鹿」といわれた今切の渡しや新居関所を避けることができる。本坂通は後に「姫街道」と呼ばれた。
享保13(1728)年に清国の商人から献上された象が長崎から江戸へ移動する際、姫街道中の急峻な坂に象が鳴いたといわれ、静岡県浜松市の引佐峠には「象鳴き(象泣き)坂」という地名が残っている。危険な難所を通らないとはいえ、決して楽な道のりではなかったことがうかがえる。
地図
参考文献
- 児玉幸多 著, "宿場と街道 : 五街道入門" (東京美術 1986)
- 武部健一 著, "道路の日本史 : 古代駅路から高速道路へ" (中央公論新社 2015)
- 神谷昌志 著, "姫街道 : 写真紀行" (国書刊行会 1984)
- 山内天快 編, "浜名湖めぐり" (浜松日報社 1918)
- 干河岸貫一 (桜所) 編『俗諺辞林』(青木嵩山堂 1901)