日暮里
古くは新堀または入堀と表記したが、江戸時代中期には日暮里と書くようになった。寛延(1748-51)の頃からつつじが植えられ、一帯は寺院の庭が続く名所となった。春の桜、秋の紅葉も美しく、日の暮れるのも忘れるということから「ひぐらしの里」とも呼ばれた。その範囲は、谷中の感応寺(現天王寺)裏門から道灌山方面に広がっており、西部の台地上には寺院が、東部の低地には農村が広がっていた。一帯は太田道灌の出城跡とされ、物見台等の遺構が残る。諏訪神社境内は諏訪台と呼ばれ、眺望が良く、厄よけなどの願いを掛けて高い場所から皿などを投げる土器投(かわらけな)げの遊びが盛んに行われた。
錦絵・絵画等
〔東都名所〕 〔日暮里〕
名所江戸百景 日暮里寺院の林泉
名所江戸百景 日暮里諏訪の台
日くらしの里
その他の資料
- 日暮里惣図 其一(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 日暮里惣図 其二(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 日暮里惣図 [其三](挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 日暮里惣図 其四(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 日暮里(本文) 『江戸名所図会 7巻』(1834)